岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

赤トンボ(アキアカネ)を思う / 日本人はトンボをどのように見てきたか(3)

2008-11-05 05:38:07 | Weblog
 (今日の写真は「枯れかけている茎頂」に止まっているアキアカネだ。羽が透明で、これが「カギロヒ」の煌めきであり、「カゲロウ」と呼ばれた所以である。何とも美しくもあり、全体として愛らしい。これは、メスだろうか。)

 アキアカネが夏を「高い山」で暮らすのは、「避暑である」というのが定説になっているようだ。しかし、その真偽はよく分からないというのもまた「定説」なのだそうだ。今日の写真のアキアカネに向かって「本当のところはどうなんだね」と訊いてみたいものだ。
 夏休みが終わり、9月に入り「秋の運動会」の頃になると、アキアカネはどんどん山から里へと降りて来る。この頃には「大集団」になることもあるそうである。

 ところで、私に「天空を飛翔する」アキアカネに対して、拘(こだわ)りを持たせる原因となった在職中のある運動会での経験に触れてみよう。
 その日、私の役目は、用具係であった。幸福にも晴天が続いて三日目のその日である。晴れわたり、天高くの秋空だ。その上、風もない。まさに運動会のために選ばれたような日であった。
 プログラムも進み、「パン食い競争」の準備にとりかかる。パンを8個、ロープに吊して、その高さを調整するために、食いつく試技をしてみた。パンが目に飛び込み食いついたものの、私の視線は広がる上空に留まってしまったのだ。
 天空という高みと広さの中に、無数のアキアカネ。一匹で飛んでいるもの、二匹くっついて飛んでいるもの、就中、この二匹連翔が多い。おだやかである。
 ポプラの葉さえも動きがなく、けっこう強い陽射しを受けながらも、その葉にはきらめきがない。
 変温動物のとんぼたちはその陽射しを浴びて、十分に体温を上げて、筋肉運動を軽やかにしているようだ。
 アキアカネの群れは層をなしている。彼等は空一面の平面を完全に掌握していた。それなのにニアミスを起こさないように、それぞれが、上下に、水平に距離を保っている。見事なものだ。しかも二匹連翔とその群れたち。

 飛行機には、操縦士・機関士、地上の管制官、その他、レーダーや無線電話など、多数の人的な、機能的な役組みが関わっている。そのような多くの人的な機能が総合的にかみ合うことでシステム機能として初めて「動き飛行」が出来るのである。しかし、それでも、時にはニアミスやら空中衝突やら墜落がある。そして、人命を奪ってしまうのだ。
 空を飛ぶという人間の科学なぞ、とんぼに比べたら、そのスマートさの点では話にならないし、なんと小回りの利かない上に、野暮でださいものであろう。

 顎を上げたまま、そんな思いを巡らして、ようやく自分の仕事に戻り、食いついたパンを外した。人間の眼とは不自由なものだ。私の姿を水平視点に認めたパン食い競争の準備をしていた生徒は何人かいた。そして、「先生、ごくろうさん」と声をかけてはくれたが、私の真似をして、天空を仰ぐ者はいなかった。
 さらに、その競技が始まってしまうと、生徒の、そのレースヘの夢中は、ますます彼等の近視と「視野狭窄」を助長した。もはや、上空に層を成すアキアカネの群れに気づく者は誰もいない。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(3)■

     4.トンバウの時代
 
 室町中期の国語辞書『下学集』(1444年)は、「蜻艇」の字を充て「トンバウ」と読ませ、「青色で姿が大きいもの」の日本名は「秋津」としている。ここに「トンバウ」の名称が新たに見えてきたことになる。
 江戸時代、貝原益軒の『日本釈名』(1899年)には、「蜻蛉」に「カゲロウ」と振仮名をし、「かける也、飛かける虫也、蜻艇は飛羽也」と記している。
 「トブハ」が訛り、トンバウと呼称されたのであろう。
 寺高良安の図説百科事典『和漢三才図会』(1741年)には、「蜻蛉」に「やんま」「とんばう」と振仮名をし、「ヤンマは総名也」としている。
 新井白石の語学書コ果報』(1719年)には「蜻蛉」の字で「カゲロウ」と読ませ、詳細な記述が施されている。「今俗にトンボウといひで東国方言には今もエンバといひ又赤卒をばイナケンザなともいふ也」としている。

     5.勝ち虫・幸運のシンボル

 鎌倉以降の武士社会にあっては、トンボは「勝ち虫」「勝軍虫」と呼ばれ武運、勝利のシンボルとして武具の装飾に使われるようになる。
 かつての「NHK大河ドラマ」の「利家とまつ」では前田利家の兜の前立てに、トンボが使われていた。矢を収める「えびら」の装飾にも好んで使われたそうである。これには、トンボはまっすぐ飛び、後戻りしないからとの説もあるようだ。
 しかし、「とんぼ返り」という言葉もあるのだから、これはおかしいだろう。当てにはならない。

 「勝ち虫」は、「記紀」における雄略天皇の故事に由来するとされており、一般にもそのように伝えられているようである。だが、「狩りの時の天皇の腕を刺したアブをトンボが食うこと」だけで、どうして「勝利のシンボル」となりうるのか、私には、その論理がよく理解出来ない。
 恐らく、「勝ち虫」の由来は神功皇后の話しにあるのではなかろうか。
神功皇后が三韓征伐の際、幾万とも知れぬ美しいトンボが現れて、船のお供をしたという伝説がある。
 「源氏」の氏神となって「八幡信仰」の対象となった神功皇后にまつわるこの伝説こそが「勝ち虫」の由来に相応しいのではないかと考えている。
                             (明日に続く。)