岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

秋の雑木林(13) / スズメバチに「襲われる」ということ(最終回)

2008-11-01 05:42:45 | Weblog
(今日の写真は神無月の22日に写したものだ。これだと、まだ秋の風情が濃厚である。とても、冬とはいえない。
 場所は岩木山宮様道路で蔵助沢を弥生方向に渡った辺りである。中央の紅葉はヤマモミジ、濃い緑の葉はミズナラであり、その葉陰に見え隠れしている赤い葉はオオヤマザクラである。)

 今日から11月だ。古くは「霜月」といっていた。陰暦11月の異称である。一般的には、霜降月(しもふりつき)の省略だと言われている。
 なお、別には、十月の「十」は満ちた数なので「上月」、それに対して「十一」は「下月」といい、「霜月」と称したという説や十月を「神無月」というが、これを「上な月」として、それに対して「下な月」と称したものが転じて「霜月」となったという説もある。また、古くは11月のことを「食物月(をしものつき)」と呼んだこともあり、それが「しもつき」と略体化されたという説もある。季語としては「冬」である。
 昨日までは「神無月(かんなづき)」と呼ばれた月である。正しくは、これは「神をまつる月」という意味である。「無(な)」は「水無月(みなづき)」と同じく「の」を意味する格助詞である。
 また、十月は全国の神様が出雲に集まるので、諸国から神がいなくなることによるという説もある。私は恥ずかしいながら、若気の至りかも知れないが、後者の説を重視して、結婚式は「神前」でなく「仏前」でしたのだが、今では前者の説に真意があると思っている。

 ところで、この写真の林の中やこの宮様道路の周辺には色々な形をした「建造物」が見られる。それに、共通していることは「物の製造工場」でもなく、「民家、住宅」でもないということだ。さりとて、粗末な「小屋」では決してない。小屋にしては立派過ぎる。
 さらに、敷地の入り口には「鎖」を張り巡らして「侵入禁止」を主張している。もちろん、建造物の入り口は厳しく「施錠」してある。いわゆる、「別荘」と呼ばれるものなのだろう。

 私はふと、「徒然草の第十一段」を思い出した。それに言う。

 …神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。…

 これらの「別荘」と思える建物は皆、この宮様道路から直ぐのところ、または宮様道路につながっている林道や「農道」に併行した場所にあるのだ。それらは、少なくとも上述の「徒然草」に言う「遥かなる苔の細道を踏み分けて」入っていくような場所には建ってはいない。
 つまり、「自動車を乗り付けることが可能な場所」に建っているということである。この建物までは「歩くことなく」「一気」に自動車でやって来るのだろう。
これでは、吉田兼好が「栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りし」時に感得し得たであろう「山里や雑木林の風情、梢を渡る風のそよぎ、野鳥の鳴き声、様々な木々が見せる色彩の違い」などに触れることが出来ないのではないだろうか…。
 しかも、敷地の入り口には「鎖」を張り巡らし、周囲には柵を巡らしている物もある。その上、建物には施錠だ。「誰も入るな」なのである。加えて、建物はみんな立派であり、華美である。どう見ても「森の中の建造物」としては「森」とマッチしないのだ。「森の中の異物」でしかない。
 まさに「高級で高額な住宅」であり、私の目には「豪邸」に見えてしようがない。弘前の街中には、これよりももっともっと貧相な住宅は沢山ある。
 少なくとも、これらの建物は兼好が言う「心ぼそく住みなしたる庵(ひっそりとした佇まいの庵)」ではないし、「さすがに、住む人のあればなるべし(だれか、それなりに教養のある人が暮らしている様子だ)」と感動させるものでもない。
 ただ、その建物には「住人」の顔はなく、「生活感のない孤独な建造物」としか映らない。
 道路から敷地にかけては自動車の轍痕が残り、直ぐ傍の道路は自動車が走り、その音がひっきりなしに聞こえ、「木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし(木の葉に埋もれる懸け樋の雫の音以外には、何の音もしない)」ではない。
 私にとっては、まさに「少しことさめて、これらの建物なからましかばと覚えしか」である。もちろん、そこの所有者なり「住人」に会いたいとも顔を見たいとも思わない。

  ■ スズメバチに「襲われる」ということから何を学ぶべきなのだろう ■

(承前)
 
 安全はもちろん大事である。しかし「安全であること」が目標の上に出てしまうと、それに振り舞わされて「野外学習」の真の目標が影を薄くしてしまうだろう。
 教育委員会は「自然の摂理の中で人を含めたすべての生物は、対等な立場で生きているのである。人間も自然の中の一員に過ぎない。」を子供たちに、体験的に学習させる現場の教員に対して、心を砕いた補償的な行政と指導をするべきである。
 管理は不要だ。管理からは何も生まれないと言っても過言ではない。自然がいっぱいの地域だからといって、それにあぐらをかいて、「安全」だけをお題目として唱えているようなことはよもやあるまい。
 また、人が集まる史跡などを管理しているものは、その周辺地域や通路などを日常的に点検すべきである。それが他の生き物と共存・共生していく最初の手立てである。
 スズメバチとその巣の存在を確認したならば、迂回路などの設定をするべきであった。または、観察に来た児童に、静かに行動をするようにとの指導があってしかるべきだったろう。
 14人が刺され、スズメバチは住みかを破壊されたあげくに、皆殺しにあった。このことを無駄にしてはいけない。自然の摂理の中には無駄なことはなにひとつないのである。(この稿はこれで終わりである。)