岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

赤トンボ(アキアカネ)を探して / 日本人はトンボをどのように見てきたか(9)

2008-11-11 05:47:01 | Weblog
 (今日の写真は「秋を彩る枯れ尾花」である。昨日岩木川の土手の上から写した一群れである。南西から射し込む日差しを受けて「暖かそうに」輝いていた。)

 「十月小春、膝小僧出っ張る」という俚諺がある。津軽弁だと「十月小春、ヒジャカブデハル」と言い慣らされている。十月とは当然陰暦の十月であり、現在だと十一月のことだ。
 その十一月にまるで小春のような暖かい日和になることがあり、それを指して言われるのである。暖かくて、それまで誰もが長めの衣類で膝を覆っていたのに「膝小僧」を出しているという訳だ。
 今朝も寒い。外気温は0.7℃だ。昨日はこれほどではなかったがやはり、5℃以下だった。しかし、日中は温度は上がった。まるで、「小春日和」となった。
 家の中にいて外の様子を窺い、昨日はまさに「十月小春、膝小僧出っ張る」というような天気だと思い、久しぶりに3時間30分ほど「加藤川」と「平川」、それに「岩木川」沿いを歩いてみた。
 そのようなお天気に誘われたこともあるが、実はアキアカネ探しに出かけたのである。
 少し歩く汗ばむほどだが、何と東からの風が冷たい。八甲田連山は北の大岳を中心に冠雪して真っ白だし、南の櫛ヶ峰も頂上からのなだらかな斜面を真っ白にしている。
 それにひき換え、西の岩木山は頂上付近を黒々とさせている。雪は消えたのだろう。風は「山背」なのだ。日差しは強い。しかし、風は冷たく「素手」だと指先がかじかむほどである。
 「失敗したかな」という呟きを何回もしながら歩き始めていた。これだと、仮にまだ、「アキアカネ」がまだ川沿いの草むらに生きていたとしても「寒くて」飛ぶことは出来ないだろう。上手く、日差しを浴びることが出来れば「飛び交う」ことも可能だろうが、この冷たさだと無理だろうなどと、思いは脳裏で渦巻く。
 加藤川沿いに、人工の「溜め池」がある。道は両側から枯れ草で覆われている。 「バリバリ、ゴソゴソ」と音を立てながら、それを踏み分けて進んでいくと、微かに飛び立つ「煌めき」があった。それは本当に「数匹」のアキアカネであった。まだ、生きていた。やはり、「アキアカネ」は水辺の「トンボ」なのだ。

■ 日本人はトンボをどのように見てきたか・日本人とトンボの付き合い方(7)■

      11. 赤とんぼの歌の普遍性(その3)
(承前)

 ある大学教授の報告に次のようなことがある。

 …「留学生を相手に話題として虫を取り上げたところ、中国や韓国からの留学生は活発に発言し、虫取りの思い出などを語ったが、アメリカやヨーロッパからの留学生は怪冴な顔をしていただけであった」…。

 「虫愛ずる姫君」以来、日本人の虫好きは世界的に有名であるらしいが、日本だけではなく、少なくとも東アジアには虫好き文化というようなものが存在するかもしれない。
 西洋では775年に、当時のフランク王国のカール大帝によってキリスト教以前の信仰が禁じられ、古い信仰はすべて悪魔に結びつけられる。魔女狩りの始まりだ。
 その結果、女神「フレイヤ」も悪魔とされ、フレイヤの日(金曜日)は不吉な日となり、「トンボ」も不幸を招く虫になってしまったという。

 『日本書紀』に、「国の状を廻らし望みて日はく」「蜻蛉の愕貼の如くにあるかな」と天皇がおっしゃられて、「始めて秋津洲の彼有り」と記述のあることは周知のところである。
 また、同書の雄略四年にも天皇を虻が襲うと「蜻蛉、忽然に飛び来て、虻を噛ひて将て去ぬ」したため、アキヅシマヤマトと命名されたとある。
 この故事からすると、天皇家にトンボは慕われる存在であってもよい筈である。だが明治天皇にはトンボの御製歌はなく、大正天皇にも見当たらない。昭和天皇にも「トンボ詠」はない。今上天皇にもない。ただ、二人の皇后は詠んでいた。

 昭和46年、香淳皇后の歌に「赤蜻蛉」の詞書で…
「あきあかねみやまあかねも高原の空をおほひてとびかはしつつ」がるし、また、美智子皇后には皇太子妃時代の昭和62年に「蜻蛉」の詞書で…
「水の辺の朝の草の光るうへ質斗目とんぼは羽化せしばかり」がある。

 近代以降、歴代天皇、皇后の御集に公表された短歌5176首のうち「トンボ」の歌が2首というのは淋しい気がしないでもない。僅か2首の歌にしても、たまたま目に触れた嘱目の詠であり、近世武家社会で「勝虫」の異名をとり、武人に好まれてきた「トンボ」であるからには、これは近代天皇家における「トンボ」ヘの正当な処遇にちがいない。
 一般民衆の心情には、「トンボ」は多種多様に、活き活きと映像を結んでいる。「泉鏡花」の「輸出用のハンケチに赤蜻蛉のつがいを刺繍」するという象徴的な用い方は圧巻である。
 また、欧米文化と日本文化との狭間に身をおき正負両面から自らを凝視する「大庭みな子」や無政府主義に傾倒した「小野十三郎」の作品にも、トンボは象徴的かつ効果的に描写されている。

 西欧人には「悪魔のかがり針」などと称され忌み嫌われている「トンボ」を、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「超自然的存在」と神聖視し、注意深く見つめていた。
 「トンボ」の霊的な象徴性は、空前の人気を博したアニメーション映画『もののけ姫』では依然としてトンボは重要な役をにない活躍している。
 テーマ主義から解き放され、潜在意識を含めて「自己」が見詰め直された時、「トンボ」は悠々と日本人の胸中に飛来しなおすのかもしれない。(明日に続く。)