岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

高山植物、どうなっているの「盗掘」?

2007-06-12 05:51:09 | Weblog
      ※高山植物、どうなっているの「盗掘」?

 手提(てさ)げ袋や不透明なポリ袋を持ち歩いている人には要注意である。一見「ゴミ」拾いをしているように見える。そのように(見せて)いる。このスタイルはおばさんたちに多いし、不法採取や盗掘をしている可能性が大きい。
 大沢の錫杖清水付近で大勢のこのスタイルのおばさんたちが、せっせと「ミチノクコザクラ狩り」をしているのに出会った。
 「止めて下さい。」と丁重に頼んでも知らぬ顔である。大声で「自然公園法に抵触(ていしょく)し、三万円以下の罰金です。」と言ったらお互い顔を見合わせてしぶしぶ止めた。
 また、ある時は、集団がミチノクコザクラを摘(つ)んでいたので注意したら、その一人が持っていたパンフ状の紙を見せて「採ってもいいだろう。」というような顔をした。
 なんとそのパンフには「ミチノクコザクラ狩りツアー」と書かれていたのである。なんと恐ろしいことだろう。主催は「営林局関係の親睦団体」と「旅行業者(ツアー会社)」であった。
 あきれてしまって、しばし絶句である。森林法を遵守(じゅんしゅ)し、かつ、守らせるはずの営林局関係者までが不法採取に手を貸しているのである。貸しているのでなく「進んで実行」しているのである。
 ところが、中にはこんな風体や格好でも「ゴミ」拾いをしている人もいる。頭が下がる思いだ。だから、時には「色めがね」を外して見ることも必要だ。しかし、「ゴミ」拾いの方は非常に稀であるから、あまり神経質になる必要はないだろう。
 だが、上にはうえがいるものだ。ゴミ拾いのふりをして、せっせと盗掘に励むものもいるので気が抜けない。

 山のものを里に運ぶということは、「山を里の基準や価値観で捉える」ということであろう。それは「あるがままの価値」に飽(あ)き足らないのだし、「時・所・位に適(かな)う価値を理解出来ない」ものでもあろう。
 つまり、きわめて一般的な都市的な感覚で山に来ているわけである。しかも、自分に都合のいい都市感覚の持ち主でもあるのだ。
 言い換えれば、山と里との間に一線を画(かく)すことが出来ないおおまかな人か、またはご都合主義に凝(こ)り固まった人間であるに違いない。
 それとも、里という社会では人格高潔な紳士淑女であるのに、大自然の中で気分が解放され、「自律のたが」がすっかり緩んでしまうとでもいうのだろうか。
 そうではあるまい。このような人は、おそらく里社会でも、自分の都合を最優先に生きている人、生きてきた人であるに違いない。裏で何をしているのか解らないと評されてもいい人たちであろう。

 私は最近、山に来てまで、こんな「色めがね」で人を見なければいけなくなっている。実に情けないことだ。その上、非常に疲れる。だから、「人」のいる山には行きたくないし、岩木山からも足が遠のいている。特に、岩木山の場合は「山頂部」付近には近づきたくないというのが本音である。
 しかし、無心に可憐に咲く花々である。それらを前にして、私はますます「色めがね」で人を見ることが恥ずかしくなる。また、「環境省自然公園指導員」という役割が、自主的なものだとはいえ恨めしく思うのである。この役割はいつまでも続けるべきものではないようだ。もう、10数年になる。そろそろ、「潮時」だろう。
 しかし、厳密に「自然保護」を考えていくと、恨めしさなどは小さい問題に思えてくるのだ。
 「自然保護」とは、どうしても営利主義(資本主義)としての『高度成長・大量生産・大量消費・大量廃棄・労働生産性・製造業中心・使い捨て製品・輸出主導・経済合理性』などや開発としての『国主導・資源の浪費・公共事業』などや社会主義的な産業何か年計画、それに戦争や軍拡などとは絶対に相容(あいい)れないものであるからだ。
 自然保護とは平和主義をその根底に置いているものだ。気を引き締めて頑張っていかなければと思う。
 山に登っているだけでは、自然保護活動なぞ決して出来るわけがない。山に登ることで「癒されて」いるはずの登山者にはその「癒し」の根源である「自然」が壊されていることに無頓着である人が多い。環境省の腕章をつけただけでは、自然保護活動にはならない。
 政治や経済の方向性や仕組みを厳しく糾(ただ)していかねばならいことは目に見えている。
 「私たちを支えている自然があと40年もすればなくなる。」と西丸震哉は「滅びの大予言」で言っているのだ。今年を基準にすれば「あと30年」と「その日」が近づいてきている。


最新の画像もっと見る