※高山の花に「出会う」ということ
白花のミチノクコザクラが最近、多いような気がする。暖冬、少雪と続けば、白花が多いことも「温暖化の顕現」でないだろうかなどと考えてしまう。
温暖化と書いたが、実際地球は現在、何回目かの氷河期の始まりに移行しているのだそうだ。それなのに温暖化が言われているわけだから、その「絶対値的な異常さ」はかなりのものである。つまり、「もの凄い温暖化が地球上で起きている」ということであろう。
その主たる原因は「森林の減少だ。」と言い切る研究者は多い。私は研究者ではないが、そう思っている一人である。
百沢から登って大沢上部の両岸に、数株の白いミチノクコザクラを発見し気分をよくして、種蒔苗代の縁に入った。
その時、鳳鳴小屋を背にして、二十人くらい老年者のグル-プが大沢方向に降りてきた。そして、種蒔苗代の上部で、その中の一人がロ-プを越えて侵入したのが見えた。
そばにかけ寄って、小声でその人に注意をしたあとで、リ-ダ-にも注意を喚起した。リ-ダ-は丁重(ていちょう)に謝ったあとで、「実は白いミチノクコザクラを見たくて、秋田から来たのです。去年も来たんですけれど会えなかったから、今回はぜひ、会いたいのです。」と言う。
私はこの「会いたいのです」という言い方に、人間味と優しさを感じた。
「会いたいのです。」という言い方には「会う」とか「出会う」という表現の持つ偶然性は薄いように思える。
そこには意志と「何々に」という間接的な目的がある。それは対象であり到達点であり、「何々を」自分のものにするという利己性も優位性、支配性も希薄であるように思われた。
「会いたい」と考える人とそれを「受け入れる物」はもはや対等なのだ。ここには、偶然性に支配される人間の弱さはない。偶然性があるから思いがけない出会いがある。だから偶然性は楽しいことをもたらすことも多い。
ところが、この偶然性は、時としてまったく正反対な事態を作り出すことがある。
それは、人間の弱さがもたらす「出来心」と呼ばれる曖昧で自己弁護的な要素を持った心理である。人の中には、この偶然性に支配されて、突然盗人に豹変(ひょうへん)したり、略奪に走るものもいる。
私はこの秋田から来た人たちにほのぼのとした安らぎを感じ取った。
その日の予定は、山頂から大鳴沢の源頭付近に降りて、最後に消えた雪渓近くにエゾノツガザクラを探して、赤倉口に下山することであった。
私は無性(むしょう)にこの人たちに「白花のミチノクコザクラ」を愛でてもらいたかった。そこであっさりと予定を変えた。
「秋田からだと朝早立ちだったでしょうからお昼にするにちょうどいい時間でしょう。ここを降りたあの標識のところで昼食を摂って休憩していて下さい。私は頂上を経て反対側の鞍部(あんぶ)まで行って来ます。30分はかからないと思います。戻ってきたら白花のミチノクコザクラが咲いているところに案内しましょう。」
ゆっくりだけど、一気に話した。
リーダーと思われる人は顔をくしゃくしゃにして頷(うなず)いた。
「よろしくお願いいたします。あそこを一歩も動かないで待っていますから。」
ほかのメンバーも嬉しそうに「お願いいたします。」とか「待っています。」をそれぞれ口にした。
彼らと別れ、目的地に行って、帰ってきたのは、それから25分後であった。遅い者はまだ昼食中であったが、私を目敏(めざと)く見つけると、慌てて出かける準備にかかった。
白花はそこから錫杖清水(しゃくじょうしみず)のほぼ中間の両岸に数株ずつ咲いている。その手前にはウコンウツギも淡泊な黄色い花をつけていた。
私は白花の前で彼らと別れた。安心感があったし、彼ら個々人の観賞に雑音を混ぜてはいけないと考えたからだ。
ミチノクコザクラという名を持つ実物に十分親しみ、加えて、めったに会えない白花ミチノクコザクラに面と向かい、名前が示す実の妙を味わい、満足して帰ったものであろう。
激しく音をたてて湧き出る錫杖の流水を見ながら、つくづく「よかったなあ」と思った。
白花のミチノクコザクラが最近、多いような気がする。暖冬、少雪と続けば、白花が多いことも「温暖化の顕現」でないだろうかなどと考えてしまう。
温暖化と書いたが、実際地球は現在、何回目かの氷河期の始まりに移行しているのだそうだ。それなのに温暖化が言われているわけだから、その「絶対値的な異常さ」はかなりのものである。つまり、「もの凄い温暖化が地球上で起きている」ということであろう。
その主たる原因は「森林の減少だ。」と言い切る研究者は多い。私は研究者ではないが、そう思っている一人である。
百沢から登って大沢上部の両岸に、数株の白いミチノクコザクラを発見し気分をよくして、種蒔苗代の縁に入った。
その時、鳳鳴小屋を背にして、二十人くらい老年者のグル-プが大沢方向に降りてきた。そして、種蒔苗代の上部で、その中の一人がロ-プを越えて侵入したのが見えた。
そばにかけ寄って、小声でその人に注意をしたあとで、リ-ダ-にも注意を喚起した。リ-ダ-は丁重(ていちょう)に謝ったあとで、「実は白いミチノクコザクラを見たくて、秋田から来たのです。去年も来たんですけれど会えなかったから、今回はぜひ、会いたいのです。」と言う。
私はこの「会いたいのです」という言い方に、人間味と優しさを感じた。
「会いたいのです。」という言い方には「会う」とか「出会う」という表現の持つ偶然性は薄いように思える。
そこには意志と「何々に」という間接的な目的がある。それは対象であり到達点であり、「何々を」自分のものにするという利己性も優位性、支配性も希薄であるように思われた。
「会いたい」と考える人とそれを「受け入れる物」はもはや対等なのだ。ここには、偶然性に支配される人間の弱さはない。偶然性があるから思いがけない出会いがある。だから偶然性は楽しいことをもたらすことも多い。
ところが、この偶然性は、時としてまったく正反対な事態を作り出すことがある。
それは、人間の弱さがもたらす「出来心」と呼ばれる曖昧で自己弁護的な要素を持った心理である。人の中には、この偶然性に支配されて、突然盗人に豹変(ひょうへん)したり、略奪に走るものもいる。
私はこの秋田から来た人たちにほのぼのとした安らぎを感じ取った。
その日の予定は、山頂から大鳴沢の源頭付近に降りて、最後に消えた雪渓近くにエゾノツガザクラを探して、赤倉口に下山することであった。
私は無性(むしょう)にこの人たちに「白花のミチノクコザクラ」を愛でてもらいたかった。そこであっさりと予定を変えた。
「秋田からだと朝早立ちだったでしょうからお昼にするにちょうどいい時間でしょう。ここを降りたあの標識のところで昼食を摂って休憩していて下さい。私は頂上を経て反対側の鞍部(あんぶ)まで行って来ます。30分はかからないと思います。戻ってきたら白花のミチノクコザクラが咲いているところに案内しましょう。」
ゆっくりだけど、一気に話した。
リーダーと思われる人は顔をくしゃくしゃにして頷(うなず)いた。
「よろしくお願いいたします。あそこを一歩も動かないで待っていますから。」
ほかのメンバーも嬉しそうに「お願いいたします。」とか「待っています。」をそれぞれ口にした。
彼らと別れ、目的地に行って、帰ってきたのは、それから25分後であった。遅い者はまだ昼食中であったが、私を目敏(めざと)く見つけると、慌てて出かける準備にかかった。
白花はそこから錫杖清水(しゃくじょうしみず)のほぼ中間の両岸に数株ずつ咲いている。その手前にはウコンウツギも淡泊な黄色い花をつけていた。
私は白花の前で彼らと別れた。安心感があったし、彼ら個々人の観賞に雑音を混ぜてはいけないと考えたからだ。
ミチノクコザクラという名を持つ実物に十分親しみ、加えて、めったに会えない白花ミチノクコザクラに面と向かい、名前が示す実の妙を味わい、満足して帰ったものであろう。
激しく音をたてて湧き出る錫杖の流水を見ながら、つくづく「よかったなあ」と思った。