岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

高山植物受難の季節

2007-06-11 06:00:05 | Weblog
      ※高山植物受難の季節
 
 今年もまた、「一昨日咲いていた白花ミチノクコザクラが、もう今日には根こそぎないという状態」が続いている。それに対処しようと、「白花」の部分をすべてむしり取ってしまう自然愛護家まで登場してくるから人間世界は複雑である。
 理屈はこうだ。「シロバナは貴重だ。希少価値があるから盗掘される。根こそぎにさせないためには、目立たなくすればいい。花の部分をむしり取っておけば、その株自体は盗掘されない。」
 なんともはやおかしな論理、勝手な論理ではある。種を存続させるという花の基本的な生命を抹殺しているのだ。哀れ!「シロバナミチノクコザクラ」である。清楚で美しいが故に、短命に終わる運命を考えると、人生も目立たず、ひっそりとした方が望ましいのかも知れない。

 私はこれまで、多数の足跡で踏みつけられて出来てしまった無意味な「道」に入っている何十人かを「ミチノクコザクラはもう少し上の、近いところにもあります。」と言って、上部の道脇に咲いている場所に案内してきた。
 そうすると「申し訳ない。」と言って指導に従い、別な場所に案内されることを素直に受け入れる人のほうがはるかに多い。私はそのことに救われてはいる。
 ところが、「すぐに出ますから。」と言って出ない者がいる。
 入ることが悪いのに、「すぐに出る」ことですませようとする。「行動の質と範囲」を問題にしているのに、自分勝手に「行動の時間」で対応する。
 人間とは、自分の都合になると途端に頭がよくなるもののようだ。言い分にはみな自分の都合が優先されている。これなども現在を条件反射的に生きる類の人間であろう。
 または「ここが一番いい被写体なんだ。」と言って出ない人がいる。そう言ったところで、ミチノクコザクラが撮影者のために咲いているわけでは決してない。咲くという営為は子孫を残す、種を存続させるという花の基本的な生命にほかならないのだ。
 さらには「ここが一番多く咲いているから、ここにいる。」と言う人もいる。これは「一番多く咲いているから、一本二本採取したって、踏みつぶしたっていいではないか。」と聞こえてくるから不思議だ。きっと本音なのだろう。
 N社やC社など有名メーカーの高級カメラ、または六九判や六七判の大型カメラを持っている者、つまり一見お金持ち風で、それなりの社会的地位にいたと感じさせる者ほど傲慢不遜(ごうまんふそん)であり、「お願いや指導」に従わないことが多いのである。
 ちなみに私は、ここ20年ほど、あのHOYAからTOBをしかけられているP社製のカメラを使っている。性能はいいし、使いやすく、値段も「お手頃」である。なによりも、「製造」に職人肌的なコンセプトの見られることが大好きなのだ。しかも、「大衆」向けである。私はどこにでもいる「大衆」の一人なので大満足である。
 もちろん、花の周囲の自然環境に配慮して、三脚は使わない。咲いている場所に踏み入る者ほど三脚を使い、この三本の「足」でまた自然を踏みつけ、攪乱させるのである。

 「よき人は、ひとへに好(す)けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。(中略)よそながら見ることなし。」唐突(とうとつ)な感じはするだろうが、これは吉田兼好が徒然草(つれづれぐさ)で述べていることである。よき人とは「教養のある人」のことであり、片田舎の人とはその対義語である。
 簡単に訳してみると『教養のある人は観賞する様子もあっさりしているが、「教養のない人はすべてのものを距離をおいて見る」ということがない。』となる。
 今から600数十年前に書かれたものだが、これは現代にも通ずる真理であろう。
 教養のあるなしは外見で判断は出来ない。その人の「行動」だけがその人に「教養があるなし」を物語るのである。
里という社会では地位があり、教養ある人士として振る舞っていても、お花畑や花のそばに、ずけずけと入り込んでしまうのであれば、それで「よき人」とはおさらばだ。
 たとえ教養書を多数読み、文化サークールで何かを学び、文化講演会に足繁く通って、テレビは教育テレビだけという生活を里社会でしていて、他人さまからも教養ある人と見なされていたとしてもである。

 そばで注意してもこうなのである。だれも見ていない時・所の場合はどうなのだろう。もっと大胆に「悪さ」をしているのではないだろうか。
 日本人の文化を「恥の文化」とある人が言ったそうだ。「する・しない」という行動の規範に恥じを求めるというのだ。「絶対の善」とか「絶対の悪」とかが、その人の行動を決定づけるわけではない。
「このことは人として、してはいけないこと。」「盗むことは悪いこと。」だからしないということよりも、これを盗(と)って見つかったら「恥ずかしい。」「人に見られたらどうしよう。」などと、周りに人目があるかないかが、重要なことになる。
 宗教や道徳によって培(つちか)われた行動の自主規制が日本人には薄いということだろう。
 いくら民主主義という行動で成り立つ「思想」を60数年前に導入しても、それが個々人の行動やその基準とはならず、形式的な「制度」として「ある」だけでしかない我が国日本、「民主主義」の一手法、一形態である多数決のみが幅を利かせる我が祖国である。個の確立はままならない。
 個が確立しない社会にあっては「自己責任」や「自主規制」は単なる言葉であって実をなさない。北朝鮮などその典型ではないか。いや、足許を見れば日本だって、この部分では「北朝鮮」と同根であろう。
 「お仕着せに従い、何もしないことが一番望ましい。」また、その対極として「自分の満足のためならば何をしても構わない。」という風潮が日本を覆い尽くしている。これでは「美しい国」には決してならない。総理大臣殿、「唇、寒くはないですか。」
 これでは、日本人に行動の自主規制など未来永劫(えいごう)に望むべくもないだろう。自主規制の出来ない人たちに、「みんなで気をつけましょう。」と言ってもそれは無理なことである。

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