(今日の写真も山桜だ。前景の一枝はまだ疎らな花つきだが、奥の方の枝々は五分咲きくらいだろうか。
「ソメイヨシノ」に比べると、「ヤマザクラ」は花の数が密生していないので、案外満開に近いのかも知れない。「ソメイヨシノ」は、まるで雪洞「ぼんぼり」のように隙間もないほどに花を咲かせるので、「何分咲き」という表現が比較的し易いのかも知れない。)
…3月27日は、既に書いたとおり、岩木山に登り「真冬の登山」を味わっていた。その翌日も寒い日だった。日曜日の29日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で、赤倉尾根の「ブナとミズナラの混交林」を「ワカン」を着けて歩いた。
灰色の雪雲にぽっかりと穴が空いて、そこからスポットライトのように青空が覗いて陽光が射し込んでいた。その陽光に射し込められる時は暖かかったが、日が翳ると「冷たい北西」の風が容赦なく吹き過ぎた。動いている時はそれほど感じはしないが、雪の上に腰を降ろして、もちろん、敷物を敷いてのことだが、昼食を摂った時は寒かった。
30日の朝、7時少し過ぎの電車に乗るために、「外」に出た時は寒かった。服装は下着を含めて3枚の重ね着である。駅に着くまでに素手の指先は軽く凍えたように悴(かじか)んでしまった。こんなこともあろうかとザックの上ポケットには薄手の手袋を忍ばせてあった。
八戸駅までは特急電車、車中でも「3枚重ね」の冬まかないであるにも拘わらず「暑く」はなかった。それだけ外気が低いということだ。
八戸から東北新幹線に乗り継ぎ、東京へ。東京からは東海道新幹線で京都に着く。そこから、私鉄の近鉄に乗り換えて奈良に入った。
そこまで、私の服装は朝に家を出た時のままで、上着を「暑いから脱ぐ」などということは一度もなかった。外は結構寒い上に「風」が強いらしく、車窓から見える樹木は一様に大きく揺れていた。
それに、空も穏やかに爽やかに晴れ渡っているわけではなく、寒々とした薄曇りであった。
きっと、三陸東方に寒気を伴った高気圧が居座り、その上、日本海には低気圧が発生していたのだろう。京都駅で乗り換えの近鉄電車を待つ間、その寒さに震えた。
雨は降らなかったが、この寒さは、私が奈良にいて、照葉樹の暗い森である「春日山原始林」を歩いたり、吉野山の「奥千本」まで登ったりして、帰って来る4月2日まで続いた。まるで、冬の名残りの「奈良の旅」であった。
そして、帰って来てから既に10日以上、最高気温22℃を含んで、真夏や初夏のような暖かく穏やかな日々が続いている。
…4月1日、電車を近鉄吉野駅で下車して「近畿自然歩道」を登った。水分(みくまり)神社、金峯(きんぷう)神社を経て、西行庵の跡地まで行った。この辺りは知る人ぞ知る「吉野杉」林に囲まれている。
岩木山や周辺で見られる杉の「放置林」とは違い、しっかりと「枝打ち」などの手入れがされている。槙(まき)の林も見える。その杉林の林縁には疎らだが「照葉樹」も見られる。「奥千本」と称されている辺りだ。しかも、昔からこの道は「大峯奥駈け道」とされていたところでもあった。何だか霊気が漂っている感じでもある。
探し求める「照葉樹の暗い森」も「ヤマザクラ」も発見出来ない。たとえ、サクラを発見したとしても、まだ固い蕾であるに違いなかった。
登りに時間を費やしたので、ゆっくりはしていられない。「西行庵」跡地の奥には「山上ヶ岳」という山があり、そこが「吉野山」山域で一番高い山らしかったので、行きたかったのだが、早々と引き返すことにする。所々の道の両側に供養の石塔が建っている。
道の片側が開けたところから眼下を見る。直ぐ下に「上千本」と呼ばれる疎らな桜の樹林が見える。梢はまだまだ幹や枝の色と同じだ。まだ蕾は固い萼片に包まれているらしい。
「ヤマザクラ」と「ヤマザクラ」の間はかなり、間遠で花が散って葉だけになっても、上から、その地肌がくっきりと見えるだろうと思った。
そして、その疎らな桜の林を「濃緑」の杉や槙の林が、厳然と輪郭を形作っていたのだ。
私は「吉野駅」を目指して、そのかつての「大峯奥駈け道」をどんどんと降りて行った。だが、目は道の脇に注がれていた。私は「スミレ」の花を追っていた。それは照葉樹林帯が分布の本拠とされる「ヒメミヤマスミレ」のことである。「ミヤマ(深山)」と呼ばれているが「標高」には余り関係がないそうだ。
岩木山では見ることが出来ないものだから「会いたかった」のだが、その道筋ではとうとう会えなかったのである。
だが、幸せにも岩木山で出会える懐かしいものも発見した。それは「黒文字」の花と「木五倍子(きぶし)」の花だった。「黒文字」は岩木山では「大葉」という言葉を冠するが花は殆ど同じだ。
そして、の脇にはまた、供養の石塔があった。私は「木五倍子咲く地図には載らぬ道祖神(北澤瑞史)」という句を思い出していた。
吉野山の「ヤマザクラ」は本来、自生していたものだそうである。「大峯奥駈け道」を駆け抜ける修験者や修験僧が、その道の「道しるべ」にしたのが初めだそうだ。
「ヤマザクラ」は明るい陽光の射し込む場所に自生する。そこは崩壊地や開放地であり、見晴らしがよく見通しの利く場所であった。彼らは「自生しているヤマザクラ」を道しるべ(道標)として、護り育ててきたのである。しかも、ヤマザクラは寿命が長い。樹齢が数百年になっても枯れない。恰好な「道標」なのだ。
その上、新しく苗木を植樹する必要もない。果実を食べた鳥が種を適当に蒔いてくれる。暗い照葉樹林内に落ちた種は芽を出さない。明るい崩壊地や開放地でなければ芽を出さない「ヤマザクラ」ゆえに「育つ場所」はいつも決まっているから「道標」は永遠に存在することになる。(明日に続く)
「ソメイヨシノ」に比べると、「ヤマザクラ」は花の数が密生していないので、案外満開に近いのかも知れない。「ソメイヨシノ」は、まるで雪洞「ぼんぼり」のように隙間もないほどに花を咲かせるので、「何分咲き」という表現が比較的し易いのかも知れない。)
…3月27日は、既に書いたとおり、岩木山に登り「真冬の登山」を味わっていた。その翌日も寒い日だった。日曜日の29日はNHK弘前文化センター講座「津軽富士・岩木山」で、赤倉尾根の「ブナとミズナラの混交林」を「ワカン」を着けて歩いた。
灰色の雪雲にぽっかりと穴が空いて、そこからスポットライトのように青空が覗いて陽光が射し込んでいた。その陽光に射し込められる時は暖かかったが、日が翳ると「冷たい北西」の風が容赦なく吹き過ぎた。動いている時はそれほど感じはしないが、雪の上に腰を降ろして、もちろん、敷物を敷いてのことだが、昼食を摂った時は寒かった。
30日の朝、7時少し過ぎの電車に乗るために、「外」に出た時は寒かった。服装は下着を含めて3枚の重ね着である。駅に着くまでに素手の指先は軽く凍えたように悴(かじか)んでしまった。こんなこともあろうかとザックの上ポケットには薄手の手袋を忍ばせてあった。
八戸駅までは特急電車、車中でも「3枚重ね」の冬まかないであるにも拘わらず「暑く」はなかった。それだけ外気が低いということだ。
八戸から東北新幹線に乗り継ぎ、東京へ。東京からは東海道新幹線で京都に着く。そこから、私鉄の近鉄に乗り換えて奈良に入った。
そこまで、私の服装は朝に家を出た時のままで、上着を「暑いから脱ぐ」などということは一度もなかった。外は結構寒い上に「風」が強いらしく、車窓から見える樹木は一様に大きく揺れていた。
それに、空も穏やかに爽やかに晴れ渡っているわけではなく、寒々とした薄曇りであった。
きっと、三陸東方に寒気を伴った高気圧が居座り、その上、日本海には低気圧が発生していたのだろう。京都駅で乗り換えの近鉄電車を待つ間、その寒さに震えた。
雨は降らなかったが、この寒さは、私が奈良にいて、照葉樹の暗い森である「春日山原始林」を歩いたり、吉野山の「奥千本」まで登ったりして、帰って来る4月2日まで続いた。まるで、冬の名残りの「奈良の旅」であった。
そして、帰って来てから既に10日以上、最高気温22℃を含んで、真夏や初夏のような暖かく穏やかな日々が続いている。
…4月1日、電車を近鉄吉野駅で下車して「近畿自然歩道」を登った。水分(みくまり)神社、金峯(きんぷう)神社を経て、西行庵の跡地まで行った。この辺りは知る人ぞ知る「吉野杉」林に囲まれている。
岩木山や周辺で見られる杉の「放置林」とは違い、しっかりと「枝打ち」などの手入れがされている。槙(まき)の林も見える。その杉林の林縁には疎らだが「照葉樹」も見られる。「奥千本」と称されている辺りだ。しかも、昔からこの道は「大峯奥駈け道」とされていたところでもあった。何だか霊気が漂っている感じでもある。
探し求める「照葉樹の暗い森」も「ヤマザクラ」も発見出来ない。たとえ、サクラを発見したとしても、まだ固い蕾であるに違いなかった。
登りに時間を費やしたので、ゆっくりはしていられない。「西行庵」跡地の奥には「山上ヶ岳」という山があり、そこが「吉野山」山域で一番高い山らしかったので、行きたかったのだが、早々と引き返すことにする。所々の道の両側に供養の石塔が建っている。
道の片側が開けたところから眼下を見る。直ぐ下に「上千本」と呼ばれる疎らな桜の樹林が見える。梢はまだまだ幹や枝の色と同じだ。まだ蕾は固い萼片に包まれているらしい。
「ヤマザクラ」と「ヤマザクラ」の間はかなり、間遠で花が散って葉だけになっても、上から、その地肌がくっきりと見えるだろうと思った。
そして、その疎らな桜の林を「濃緑」の杉や槙の林が、厳然と輪郭を形作っていたのだ。
私は「吉野駅」を目指して、そのかつての「大峯奥駈け道」をどんどんと降りて行った。だが、目は道の脇に注がれていた。私は「スミレ」の花を追っていた。それは照葉樹林帯が分布の本拠とされる「ヒメミヤマスミレ」のことである。「ミヤマ(深山)」と呼ばれているが「標高」には余り関係がないそうだ。
岩木山では見ることが出来ないものだから「会いたかった」のだが、その道筋ではとうとう会えなかったのである。
だが、幸せにも岩木山で出会える懐かしいものも発見した。それは「黒文字」の花と「木五倍子(きぶし)」の花だった。「黒文字」は岩木山では「大葉」という言葉を冠するが花は殆ど同じだ。
そして、の脇にはまた、供養の石塔があった。私は「木五倍子咲く地図には載らぬ道祖神(北澤瑞史)」という句を思い出していた。
吉野山の「ヤマザクラ」は本来、自生していたものだそうである。「大峯奥駈け道」を駆け抜ける修験者や修験僧が、その道の「道しるべ」にしたのが初めだそうだ。
「ヤマザクラ」は明るい陽光の射し込む場所に自生する。そこは崩壊地や開放地であり、見晴らしがよく見通しの利く場所であった。彼らは「自生しているヤマザクラ」を道しるべ(道標)として、護り育ててきたのである。しかも、ヤマザクラは寿命が長い。樹齢が数百年になっても枯れない。恰好な「道標」なのだ。
その上、新しく苗木を植樹する必要もない。果実を食べた鳥が種を適当に蒔いてくれる。暗い照葉樹林内に落ちた種は芽を出さない。明るい崩壊地や開放地でなければ芽を出さない「ヤマザクラ」ゆえに「育つ場所」はいつも決まっているから「道標」は永遠に存在することになる。(明日に続く)