岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

桜の季節、これが吉野の桜「ヤマザクラ」だ。

2009-04-14 04:44:33 | Weblog
 (今日の写真は奈良県吉野のヤマザクラだ。超弩アップで写したものがなかったのでトリミングして花そのものを大きくしてみた。これで、花の詳細が伝わるといいなあと思っている。これで五弁の花びら、おしべ、雌しべ、萼片などはっきり分かるだろう。何せ、この津軽では「自生していない」サクラなので、「とくとご覧あれ」というところである。)

 さて、吉野山とその桜の歴史を辿ると、今から1300年以上も前の飛鳥時代の「山岳信仰」まで遡るのだそうだ。
 「修験道の開祖」とされている役行者「えんのぎょうじゃ」が、この吉野山で難行苦行の末に「蔵王権現」を会得した。この「蔵王権現」を「桜の木」で彫り刻み、金峯山(きんぷうせん)寺の本堂として「蔵王堂」を建立して、そこの「ご本尊」とした。
 それで、「桜」が御神木として扱われるようになったのだそうである。だが、実際は、既に書いたとおり、農民たちはサクラの開花を農作業開始の目安にするなど、「神」や「女神」として崇めていたのである。
 また、それは「吉野」は大和の水を司る地であったことを想起させる。「水の神」は「山の神」でもある。これは全国にほぼ共通する信仰体系である。
 その「山の神」に人々は「花を供える」という形で「信仰」を具現化してきた。つまり、農民達の「水を差配する神への信仰が、吉野山を一面の桜にする」に至ったのであろう。
 加えて、修験道が盛んになるのに従い、吉野山に修業に訪れる修験者が「御神木」である桜の木を、植栽し続けてきたという。
 これらのことが「大峯奥駈け道」を駆け抜ける修験者や修験僧が、桜の木を「道しるべ」にしたことと相まって伝えられているのであろう。

 吉野山の「ヤマザクラ」はこのようにして保守されてきた自生の桜であった。「山中で迷うか迷わない程度」しかなかったなかったのが、古来からの「吉野山の桜」なのである。
 しかし、現在のものは、余りにも観光を意識し、造られた桜の林に過ぎない。現在のものは限りなく桜並木に近いものである。
 道々には仰々しいほどに素晴らしい「これでは迷うことがあり得ない」ないほどの案内板や標識がある。
 「吉野」の桜は今や完全に「標識」という役割を放棄させられている。観光客集めの「書き割り」や「立て看板」に堕しきっている。

 一説に因ると、吉野山の桜は、現在200種、約3万本が、約50haにわたって「生えている」そうだ。大半が「ヤマザクラ」だという。これだけ「日本古来のヤマザクラ」が集団で生えている場所はないと言われている。
 だが、これでは、密植に過ぎる。「並木」完成を急ぐための「密植」に過ぎるし、「種類」も交配や変異を考えると多すぎる。
 そして、これらの影響が「樹勢の衰え」や「若木が枯れる現象」として、既に出始めている。これは「1300年来の貴重な歴史的景観が消える」ということでもある。
 それは、吉野の「ヤマザクラ」のほとんどが、「ウメノキゴケに幹が覆われている」ということだ。
 「ウメノキゴケ」は枯れた木に付着する。それは、桜の木の内部で「ナラタケ菌」が繁殖して、内部がほぼ空洞化しているからである。
 だから、「ウメノキゴケに覆われた桜」は、この「コケ」を「剥ぎ取って」も自己治癒は出来ず、伐ってしまうしかない。
 既に「下千本の桜」の大半がナラタケ菌に犯され、「中千本の桜」にも広がっているというのだ。若木でも急速に「衰えること」もあり、もはや、対症療法では追いつかない状態なっているということだ。
 調査によると、「衰退」している木は、日当たりのよくない北東斜面に多いという。このことから、「雨の降り方、水回りによる影響」や「管理する人手の不足」などが樹勢に影響した可能性もあると考えられるという。
「山の神(水の神)」に人々は「花を供える」ということで、「桜を植樹」してきたという信仰的な側面もある。「道しるべ」という修験道的な側面もある。それだけ「止めておく」べきだった。
 観光・人集めという商業的な側面に比重がかかりすぎて、「密植」へと走った。その結果が「枯れる」という事態だ。何という愚かなことだろう。「ほどほど」という「分を知る」には、自然に学ぶしかないのである。人の本性はまさに「愚」である。
 以上の事例は、「岩木山の大山桜の並木」にも、当然、該当することがあると考えられるが、どうだろうか。

 豊臣秀吉が「乙女子が袖ふる山に千年へてながめにあかじ花の色香を」と詠い、そして、が徳川家康が「咲く花を散らさじと思ふ御吉野は心あるべき春の山風」と詠じた和歌は、ともに吉野山の桜である。
 だが、「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」(願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたい。草木が芽吹く頃の如月(陰暦二月だから現在の3月末から4月の初めか)の満月の頃がいい、とでも解釈すればいいだろうか)という辞世の歌を残している「西行」法師の和歌には、その情緒、趣意的に及ぶものではないだろう。
 「西行」は、奥吉野の金峯神社の近くに庵をあんで、桜の園の中に埋もれるように暮らした。現在、西行が住んだといわれる跡が「西行庵」として遺っている。私はここも訪ねてきた。「西行庵」が在ったとされる辺りは、吉野でも一番最後に、桜が開花する場所でもある。

 「新古今集」には、次の三首が収録されている。難しい和歌でないので、注釈を参考に解釈されてはいかがだろう。

「よし野山さくらが枝に雲散りて花おそげなる年にもあるかな」
(注:花おそげなる年にもあるかな-「花の咲くのが遅い年であることだなあ」)

「吉野山去年(こぞ)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ」
(注:去年のしをり-「去年尋ねた」)

「ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」
(注:花にもいたく馴れぬれば-「花にひどく情が移ってしまうので」)

 なお、「西行」が編んだ山家集には、次の歌もある。
「雪と見てかげに桜の乱るれば花の笠着る春の夜の月」これは注釈が不要だろう。月と桜が醸し出す美しい風情である。
 
 「西行」の吉野の「桜」に対する思いを知れば知るほど、「西行」は現在の「吉野山」の桜の実態を知ったら、どのように思うのだろうか、屹度、悩むに違いないと考えるのである。そして、何だか西行が気の毒で可哀想に思えてしようがないのである。(明日に続く)

最新の画像もっと見る