岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

助け合いは「美しい」が寄りかかりは危険で見苦しい

2007-06-14 05:22:57 | Weblog
 私は「詩」が好きだ。俳句も好きだ。中でも特に好きな女流詩人は「茨木のり子」や「石垣りん」であり、「金子みすず」だ。俳人は「中村汀女」を筆頭にたくさんいる。その茨木も石垣も鬼籍に入って、はや数年になる。

 茨木の詩に「寄りかからないで…」というのがある。
   もはや できあいの思想には寄りかかりたくない…
   もはや いかなる権威にも寄りかかりたくはない
   ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい 
   じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある

 数年前の朝日新聞天声人語で、人語子は「茨木さんは、いま73歳。自分が…そこまで生きられたとして、できあいの思想や学問に相変わらず寄りかかっているのではなかろうか。」と言っている。
 私たちは常に過去を背負っている。過去とは決して「過ぎ去り、忘却の彼方に消滅」してしまうものでもないし、消滅させてていいものではない。
 ところが、最近の世情の中では「過去」に対する関心が希薄であり、政治家や起業家やその他の人々も「自分の過去の所業」に対する責任のない行動・言動が非常に目立つ。これは、その人たちが、自分の「過去」の一時点における「今」と真剣に向き合っていなかったことでもあるだろう。「今」するべきことに自分の全力を尽くして取り組むことをしない、「自力」ですることをしないのである。
 「今」を大切にして生きていると、その「今」が「過去」となった時に、きっと「過去」は愛おしいものになるはずだ。ただ、「今を大切に生きる」ということは「今に安住して、今を保守する」ということではない。
今の自分としっかり向き合い、自分の二本足のみで立つ時に自分が見え、他人も見える。これは、なにかと他に寄りかかって暮らすという平穏無事な日常のベールが剥がされるからであろう。
無常な営為の中で、私たちは「山や自然」を常住不変で、永遠のものであるとしていないだろうか。姥捨てとは、命をその永遠性に託したものであるに違いない。
 それは自分と向き合い、山を見つめてきた者が、自身の処し方を決めた所業だろう。無常を己のことと受け止め、しかも、周囲の者も深く理解を示した辛く悲しい厳然とした所業でもあるはずだ。
 厳しく深い理解は、しばしば深い悲しみと辛い行動と決断を必要とするものだ。しかし、人間は己の無常になかなか気づかないし、気づこうともしない。
 時には集団的に同一化を謀り、無常とは拒否出来ないものであるにも関わらず「みんな仲間で同じように変わりはしない、いつまでも同じでいよう。」ということになる場合が多々ある。ただ、これは互いに無常だと思いたくないのであって、単なる自己満足の寄りかかり集団に過ぎないものだろう。

 人とは、他人に固定観念のレッテルを貼り、その人の行動や性格を決まり文句で決めつけると、心が楽になるものなのだそうだ。時として、この寄り合い集団はレッテル貼りを好む。逆に他人が複雑で理解が遠い時は不安になり、同じ思いの人同士ひとつ所に集まって集団で特定の個人に対してのレッテル貼りにいそしむ。
 面白いことにその行為は、傍目に組織内の異質者を糾弾して正常化していると見えるらしい。往々にしてレッテルを貼る側はそれを計算しているふしがある。「我々は組織内に芽生えた悪を懲らす善者なのだ」というレッテルを自身にも貼るらしいのだ。ところが、決まり文句では複雑性は表現が不可能なので、このレッテルは多面多様なその人の一面だけを見ているに過ぎないものになる。
 
 26才で自裁した詩人、金子みすずが…
「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」
 …と詠ったように、まさにみんな違って、みんないいのである。
 みんなが金太郎飴になり、異質を排除しようとする時、そこにはある種の権威が生まれ、些末な規制が敷かれるようになるのが常だ。
 最近の国会の動きに「些末な規制が敷かれる」予兆を感じて恐ろしい思いがしている。我が国の軍国主義台頭という歴史を見ても、みんなが同じになった時に、危険な方向に歩き出していたことがよく解るではないか。
 組織や集団がその構成員から「個人」を取り上げることは決して出来ないことだ。「岩木山を考える会」という組織自身の顔貌を変化させないために、会員の無顔貌を望むのならば、会からも会員からも個性は消失し、活動が「組織の目的化」だけに終始するようになるだろう。
 最近の安倍総理の自民党は「自己目的化」的な動きに終始している。口では「国民のみなさま」と言うが、行動の対象に「国民」はいない。慇懃無礼な言葉の裏で自分の党の存続だけを考えている。
 年金にしろ介護保険にしろ、上からの「お仕着せ」には一人一人の個性をかけた吟味が必要なのだ。ところで「介護保険」、集めたお金はどうなっているのだろう。社会保険庁の年金のように、とてつもない「無駄づかい」はされていないのだろうか。

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