岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

東北自然保護のつどい開催場所・花の名前、ものの名前

2007-06-10 07:17:09 | Weblog
      ※東北自然保護のつどい開催場所

先ず、昨日、話題にした「第28回東北自然保護のつどい・岩手大会」の開催場所のことが少し分かったのでそれについて書こう。
 岩手・大沢温泉(自炊部)のhtmlは「 www.oosawaonsen.com/s-zisui.htm 」である。住所は岩手県花巻市湯口字大沢181、電話:0198-25-2315 Fax:0198-25-2316となっている。道順など事前に知りたい方はこのhtmlにアクセスするか、電話で問い合わせてみたらいかがだろう。
 歴史があり、しかも、とても大きな施設のようで「四つの温泉」巡りが出来るようで、自炊部というはその一つのようである。
 「自炊部」というから昔の「湯治」場のイメージを持つが、実際は「伝統的な湯治場としての雰囲気と形、運営形態」を残しながら、一方で普通の「旅館」としての経営をしているのであるらしい。私は今から何となく嬉しくなっている。楽しみである。
      
      ※花の名前、ものの名前

 今、道端や原野ではハルジョオンの花が最盛期である。これとよく似たものにヒメジョオンというのがある。しかも同じ場所に咲くというからどっちがどっちなのかを判定することが難しい。ハルジョオンの方が開花が早く、ヒメジョオンの方が遅いという「咲く時期」に違いがあるものの、ヒメジョオンも咲き出してしまうと、形態や色彩からの違いでは「見分け」は困難になってしまう。
 こんな場合は、大まかに「あの花」とか「あれ・これ」とかと代名詞的な方法や「何とかに似た花」という表現をすることが多い。名前を知らないで、すべてを「あれ」とか「これ」という代名詞で呼んでいるうちに、その実体を指し示しきれなくなるだろうし、我々とそのものとの関係も希薄になっていくに違いない。
 「あの人」とか「彼」という漠然とした人称代名詞で呼んで話題としているよりは、自分だけが相手の名前を一方的に知っているとしても、固有の名前を用いた話題の方にぐっと親しみを持てた気分になるものではないだろうか。お互いに知り合うとなればもはや言うまでもない。このことは、何事にも当てはまるもののようである。

 「動物」と「植物」という大別的な呼び方も同じく希薄である。もう少し小さく分けて「魚類」「両生(りょうせい)類」「爬虫(はちゅう)類」「鳥類」「哺乳(ほにゅう)類」「昆虫類」、また「双子葉(そうしよう)植物」「単子葉植物」としたところで、その希薄さは大して変わらない。
 草をみんな「草」と呼ぶだけでは味っけがない。どのような鳥をも「鳥」の一語で、すべて花をたった一語の「フラワー」という語で呼び合っていたら、あっち見てホイ、こっち見てホイの世界で煩(わずら)わしい上に、これまた親しみがわかない。

私たちはこれらの弊害を取り除くために、概括的な広い範囲から順次狭(せば)めて、人の場合は「動物」から「セキツイ動物門」へ、そして「哺乳綱」から「霊長目(もく)」へ、「類人猿科」から「ヒト属」へ、最後は生物学的に分割出来ない種に至って「…人種」というように、幹・枝・葉のような図式分類をしているのである。「…人種」に至って我々は社会性を維持し、最後の最後として、つまりこれ以上は細かく分けられない固有の人格として名前や氏名を持つのである。
 マウンテンゴリラやローランドゴリラは我々と同じ「霊長目、類人猿科」の動物である。だからといって彼らを「霊長目、類人猿」と呼んで親しみが湧くだろうか。やはり「ゴリラ」と呼ぶほうが身近だろう。
 昆虫のカブトムシを「動物、節足(せっそく)動物、昆虫綱、鞘翅(しょうし)目」の動物と呼んでは異次元の世界だろう。「こがねむし科、カブトムシ属」とまでくれば、なんだかほっとし「カブトムシ」という個別の種の名前に至ると、思わず微笑みがこぼれて、親しみは倍加する。
 春に弘前公園を彩るソメイヨシノは「植物、種子植物門、双子葉植物綱、バラ目、バラ科」の花でもある。しかし、やはり我々にとっては「サクラ属」の仲間であるソメイヨシノという種を措(お)いてはないのである。
 本県の特産品であるリンゴも同じ「バラ科」の「リンゴ属」とされ、フジやムツという種がある。フジはそれだけで、すでにこの地方ではリンゴというを「実体」を指すのであり、誰も「バラ科」のフジやムツとは言わない。
 鳥にしてもそうである。センダイムシクイという名の鳥がいる。「ショウチュウイッパイグーイ」と聞きなして、野鳥愛好家の中ではよく知られている鳥であると言う。ところが一般の人には余り知られていない。これは範囲を広げて見ると「セキツイ動物門」までは我々と同じ仲間なのだが、「鳥綱、スズメ目、ヒタキ科、ウグイス亜科、ムシクイ属」の鳥である。これと横並びの親戚にヤブサメといってウグイスによく似た鳥がいる。もちろん「ウグイス属」だ。そこで、「これらはスズメやウグイスの仲間ですよ。」と言われたらどうだろう。
鳥の中では、哺乳類の犬と同じように人間と逞しく、営々と共存している身近な鳥、雀(すずめ)である。知らない人はいないはずだ。
 梅にウグイスである。しかも人里に近い藪あるところにいる鳥、姿や羽毛の色を知らない人でも、うぐいす餅を食べたことがあると色具合は想像出来るし、つとに知れ渡っている鳴き声から誰もが知っている鳥である。センダイムシクイやヤブサメに雀や鶯(うぐいす)を連想して「親しさ」を感じはしないだろうか。

 名前を知ることの基本的な効果と意義はこんなところにあるような気がしてならない。名を知ることはより多くの事柄を身近なものとして自分に引き寄せ、多くのものに親しむことにつながることなのである。
 多くのものの名を知っていることは、その名が示す多くの実体を知ることであり、知っていることである。
 しかし、何でも知っているという博学振(はくがくぶり)りをひけらかすという側面だけの満足では軽薄に過ぎるというものだろう。多くの実体に接してそれらを身近な親しいものとして把握できることはすばらしいことだ。
 実体を知るということになるのだから、これは「科学的」ということ、動物、植物という自然界だけでなく人間社会、つまり政治等の社会人文の世界の諸動向にも、その実体へと目を向けることになるはずである。
 ところが、「名のみを知っている」者が結構多いので社会生活は厄介である。
「ササエビネ」(コケイランの別名)という名前に触れて、その実物と出会った時に、薄く暗黄色に輝く一輪一輪の小さい花が、この上なく美しく愛(いと)おしく思え、これがそうなのだと納得出来得るのである。                      
実体を見つめ、その名前を知るべきだ。花も草も樹木も、鳥も獣も虫たちも、名前を知ったその時から、人生の疲れを癒(いや)してくれるものになり、楽しさは倍加する。
 それだけではない。雲も星も風もが、我々の仲間であり、我々を支えてくれているものに思えてくる。名前を知ることはそれらへの感謝の一表現かも知れない。

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