(今日の写真も「ツルウメモドキ」の花である。ただし、今日のものは「雌花」だ。雌花の花弁は淡緑色で、長さが約2.5mmと非常に小さい。雌しべの柱頭も見える。下部の花盤の周囲には5本の雄しべとその葯も見える。)
この小さい花が、しかも「淡緑色」の花が、秋になると小さな「柿」そっくりの実になり、やがて割れて内部の「赤みがかった橙色」の果実を見せるのだ。まさに、造化の妙だ。
また、大きな葉ではないか。この葉が「ウメモドキ」に似ているというのだが、果たしてどうなのだろう。濃緑というよりは、こちらもまだ「初々しさ」を残す萌葱の色だ。夏の始まりを告げる色でもある。
「ウメモドキ」はモチノキ科モチノキ属の落葉小低木だ。「本州、四国、九州に分布し、湿原の周辺などの湿った場所に生育することが多い」とされているが、私は岩木山でまだお目にかかっていない。
葉には縁に小さな尖った鋸歯があるのが特徴の1つだから、いつ出会っても直ぐ分かりそうなのだが、未だに出会いはない。
「ツルウメモドキ」と同じように雌雄異株で、雌株は秋に美しい赤い実をつける。しかし、「柿」のような風情はない。11月の初めまでは葉も残るが、11月の終わりには落葉して果実だけが枝を飾っている。その枝の様子も繊細で、最高級の花材として「生け花」にはよく使われる。この点も「ツルウメモドキ」と同じだ。
この写真を撮った辺りには数本の「ツルウメモドキ」が生えている。ただし、見た目には「数本」であることがはっきりと分からない。
何故かというと「蔓」性であるがゆえに絡み合っていて、1本の木から出た蔓や枝が相対をなしているからである。つまり、そこだけが「ツルウメモドキ」の叢林をなしているのだ。しかも、それに、ヤマブドウが絡まり、その奥には太めの「オンコ(一位)」の木までが生えているのだ。
だから、一層、「ツルウメモドキ」の本数を数えることも、株立ちを区別することも難しくなるのである。
幸い、ここ数年、この場所で秋や冬に「ツルウメモドキの果実」を確認しているので、「この辺りに実があったので、この辺りのものは雌株だ」「この辺にはまったく実がなかったので、この株は雄だ」という判断が出来た。その判断を記憶に辿って、「雌花」と「雄花」を区別して写したのである。
昨日も書いたが、雌しべの柱頭が3つに分かれているということまでは「写し取る」ことは出来なかった、大きな「柱頭」を見せているのが「雌しべ」であるということは容易に分かったのである。だが、それにしても、何と煩わしいことだろう。これだけ、「似ている」と「区別」することが難しすぎる。
「花」の世界は複雑なのか、単純なのかさっぱり分からなくなってしまうのだ。バラ科のリンゴのように「雌雄同株」で、一輪の花が「雌しべと雄しべ」を備えているのならば、このような面倒はない。「リンゴの花」という1語句で表現が可能である。だが、雌雄異株の場合は、「これは雌花」「それは雄花」ということになる。植物の進化の過程からすれば、どっちが「進化」した機能なのだろうか。
桜の「ソメイヨシノ」もリンゴと同じ花のつくりをしている。上から見ると雌しべも雄しべも、葯もよく見える。もちろん、花柱の柱頭も見える。下から覗くと花柄も萼も萼筒もしっかりと見える。花弁(花びら)も5枚ちゃんとある。
萼筒を縦に切って、その中を覗くと花糸や花柱、それに子房もよく見える。立派な「両性」を備えた花である。だが、ソメイヨシノの子房(通常、種を作る部位)には子孫を残す機能がない。
見かけは「立派な花」なのに、これでは「仮装の飾り花」であり、「本物」の花ではない。「見られるだけ」の花だから、これでいいのかも知れない。それにしても、何という罪作りなことを、人間はしたものだろう。自分で「子孫を作れず、子孫を残すことも出来ない」となれば、もはや、生物体として破滅ではないか。
これは「クローン植物」なので、「自然繁殖」が出来ない。「接ぎ木など人の手を介し」て繁殖するしかない樹木なのである。この「ソメイヨシノ」などは「進化のプロセス」にない植物ということになるのだろうか。
「雌雄異株」と言われていて、春一番に林床に咲き出す「ナニワズ」の花は、もっと「変」である。
雌雄異株だそうだが、「解剖」してみると、明らかに上下2段に4個ずつ配列した計8個の雄しべの他に、立派な雌しべが見えるのだ。
このように両性備えながら、雌雄異株といわれるのは、「実のなる木と実のならない木」があるからなのだそうだ。
また、雄花では、萼筒が長く、雄しべの葯の下(奥の方)に雌しべの柱頭があるので、 昆虫がよほど奥まで入らないと受粉ができないように思える。そういう構造から言えば、雄花には種子ができにくいと考えられる。しかし、葯からこぼれた花粉が柱頭に付いているのを確認出来るので種子ができる可能性もある。
何らかの不和合性によって種子ができない仕組みを持つことも十分考えられるだろう。
「日本の野生植物・木本Ⅱ・平凡社」には、「はっきりしない雌雄異株」という表現があるそうだ。これは「見かけ上、花に2つの型があって、雌花型の雄しべは未発達だが、雄花型では雄しべも雌しべもしっかりしていて、一見雄花とは見えない」ということを述べているのではないだろうか。
ところで、私たち「ヒト」科は「雄と雌」という「単性」ではっきりと「区別」されている。いってみれば、「雌雄異株」であり、「雌花と雄花」がまったく違う存在だ。これは、果たして「生物学的」に進化した結果なのだろうか。子孫を残すという「大命題」の完遂のためには、果たしていいことなのだろうか。
「ツルウメモドキ」の花々は、私にそのような「どうにもならない」疑問をどんどんと浴びせかけるのであった。
この小さい花が、しかも「淡緑色」の花が、秋になると小さな「柿」そっくりの実になり、やがて割れて内部の「赤みがかった橙色」の果実を見せるのだ。まさに、造化の妙だ。
また、大きな葉ではないか。この葉が「ウメモドキ」に似ているというのだが、果たしてどうなのだろう。濃緑というよりは、こちらもまだ「初々しさ」を残す萌葱の色だ。夏の始まりを告げる色でもある。
「ウメモドキ」はモチノキ科モチノキ属の落葉小低木だ。「本州、四国、九州に分布し、湿原の周辺などの湿った場所に生育することが多い」とされているが、私は岩木山でまだお目にかかっていない。
葉には縁に小さな尖った鋸歯があるのが特徴の1つだから、いつ出会っても直ぐ分かりそうなのだが、未だに出会いはない。
「ツルウメモドキ」と同じように雌雄異株で、雌株は秋に美しい赤い実をつける。しかし、「柿」のような風情はない。11月の初めまでは葉も残るが、11月の終わりには落葉して果実だけが枝を飾っている。その枝の様子も繊細で、最高級の花材として「生け花」にはよく使われる。この点も「ツルウメモドキ」と同じだ。
この写真を撮った辺りには数本の「ツルウメモドキ」が生えている。ただし、見た目には「数本」であることがはっきりと分からない。
何故かというと「蔓」性であるがゆえに絡み合っていて、1本の木から出た蔓や枝が相対をなしているからである。つまり、そこだけが「ツルウメモドキ」の叢林をなしているのだ。しかも、それに、ヤマブドウが絡まり、その奥には太めの「オンコ(一位)」の木までが生えているのだ。
だから、一層、「ツルウメモドキ」の本数を数えることも、株立ちを区別することも難しくなるのである。
幸い、ここ数年、この場所で秋や冬に「ツルウメモドキの果実」を確認しているので、「この辺りに実があったので、この辺りのものは雌株だ」「この辺にはまったく実がなかったので、この株は雄だ」という判断が出来た。その判断を記憶に辿って、「雌花」と「雄花」を区別して写したのである。
昨日も書いたが、雌しべの柱頭が3つに分かれているということまでは「写し取る」ことは出来なかった、大きな「柱頭」を見せているのが「雌しべ」であるということは容易に分かったのである。だが、それにしても、何と煩わしいことだろう。これだけ、「似ている」と「区別」することが難しすぎる。
「花」の世界は複雑なのか、単純なのかさっぱり分からなくなってしまうのだ。バラ科のリンゴのように「雌雄同株」で、一輪の花が「雌しべと雄しべ」を備えているのならば、このような面倒はない。「リンゴの花」という1語句で表現が可能である。だが、雌雄異株の場合は、「これは雌花」「それは雄花」ということになる。植物の進化の過程からすれば、どっちが「進化」した機能なのだろうか。
桜の「ソメイヨシノ」もリンゴと同じ花のつくりをしている。上から見ると雌しべも雄しべも、葯もよく見える。もちろん、花柱の柱頭も見える。下から覗くと花柄も萼も萼筒もしっかりと見える。花弁(花びら)も5枚ちゃんとある。
萼筒を縦に切って、その中を覗くと花糸や花柱、それに子房もよく見える。立派な「両性」を備えた花である。だが、ソメイヨシノの子房(通常、種を作る部位)には子孫を残す機能がない。
見かけは「立派な花」なのに、これでは「仮装の飾り花」であり、「本物」の花ではない。「見られるだけ」の花だから、これでいいのかも知れない。それにしても、何という罪作りなことを、人間はしたものだろう。自分で「子孫を作れず、子孫を残すことも出来ない」となれば、もはや、生物体として破滅ではないか。
これは「クローン植物」なので、「自然繁殖」が出来ない。「接ぎ木など人の手を介し」て繁殖するしかない樹木なのである。この「ソメイヨシノ」などは「進化のプロセス」にない植物ということになるのだろうか。
「雌雄異株」と言われていて、春一番に林床に咲き出す「ナニワズ」の花は、もっと「変」である。
雌雄異株だそうだが、「解剖」してみると、明らかに上下2段に4個ずつ配列した計8個の雄しべの他に、立派な雌しべが見えるのだ。
このように両性備えながら、雌雄異株といわれるのは、「実のなる木と実のならない木」があるからなのだそうだ。
また、雄花では、萼筒が長く、雄しべの葯の下(奥の方)に雌しべの柱頭があるので、 昆虫がよほど奥まで入らないと受粉ができないように思える。そういう構造から言えば、雄花には種子ができにくいと考えられる。しかし、葯からこぼれた花粉が柱頭に付いているのを確認出来るので種子ができる可能性もある。
何らかの不和合性によって種子ができない仕組みを持つことも十分考えられるだろう。
「日本の野生植物・木本Ⅱ・平凡社」には、「はっきりしない雌雄異株」という表現があるそうだ。これは「見かけ上、花に2つの型があって、雌花型の雄しべは未発達だが、雄花型では雄しべも雌しべもしっかりしていて、一見雄花とは見えない」ということを述べているのではないだろうか。
ところで、私たち「ヒト」科は「雄と雌」という「単性」ではっきりと「区別」されている。いってみれば、「雌雄異株」であり、「雌花と雄花」がまったく違う存在だ。これは、果たして「生物学的」に進化した結果なのだろうか。子孫を残すという「大命題」の完遂のためには、果たしていいことなのだろうか。
「ツルウメモドキ」の花々は、私にそのような「どうにもならない」疑問をどんどんと浴びせかけるのであった。