岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

桐は中国原産だが、岩木山にも自生している / 桐の花を歌題にしたHさんの短歌

2009-06-07 05:15:28 | Weblog
 (今日の写真は、ゴマノハグサ科キリ属の落葉広葉樹「キリ(桐)」の花だ。原産地は中国とされているが、日本では北海道南部以南において昔から植栽されている木である。
 種子には翼がついており、風でよく撒布され、発芽率が高い。しかも、成長が早いため、岩木山では特に山麓で野生化した個体が見られるのだ。高さ8~15m、直径40~60㎝ほどになる。
 だから、「自生」している樹木と扱ってもいいのだが、拙著「カラーガイド岩木山・花の山旅」にはいれていない。
「科」を「ノウゼンカズラ科」または、独立の「キリ科」とする意見もあるそうだ。
 花は大きい。つぼみは前年に出来る。毛に包まれて冬を越し、5月から6月にかけて、うす紫色の花を咲かせる。花は長さ5~7㎝の筒状鐘形で、5枚の花弁で、雄しべ4本、雌しべ 1本の両性花だ。「桐」といえば、「材」について触れなければいけないだろうが、今朝は「花」に留める。 
 大きく分類すると、桐はシソ(紫蘇)科の系統に入る。花の形が似ている。
 アゼナ、ムラサキゴケ、トキワハゼ、ミヤマママコナ、オオバミゾホウズキ、コシオガマ、クガイソウなどの草花も同じ仲間である。花の大小や色の違いはあっても形が非常に似ている。
 名前の由来であるが、江戸時代に書かれた「大和本草」に「コノ木切レバ早ク長ズ、故ニキリト云ウ」とあるので、「材を切って削って使用する」という意味から「切り」と呼ばれたことによるらしい。つまり、その語源は「切り」にあるというわけである。
 学名に、「ポローニア」という語が使われているが、これはオランダの女王の名前で、シーボルトが日本から桐の種子をヨーロッパに持ち帰った時に、女王の名前を冠したことにあるという。学名からしても「桐」は日本と深い関係のある樹木なのである。)

 5月28日にNHK弘前文化センター講座「岩木山の花をたずねる」の受講者と岩木山神社界隈とその上部の樹林帯を歩いた。その時に、この「桐」に出会ったのだ。
 そして、受講者のHさんが翌週の講座で、次の短歌を私に提示した。他の受講者にも講座の中で、早速紹介したのである。

     「遠き世の物語のごと儚かりほつりと落つる桐のむらさき」

 以前にも書いたが、自分の作った短歌をみてほしいということには「評価をして添削してほしい」という意向が含まれている。
 私は「メール」でそのことに応えた。以下が、そのメールだ。

 …『お断りしますが、私は「短歌」を日常的に作っているものではありません。その意味では「短歌」に関してはずぶの素人です。
 素人というものは既成の概念や決まりに惑わされることなく自由な発想の出来ることが「柔軟性ある強み」であり、同時にそれは「深みのない弱点」でもありましょう。
 そのようなことを自覚した上で、畏れおおくも、あなたの「短歌」を添削いたします。ですから、私が「添削」したものが必ずしも「いいもの」であるという保証は何一つありませんから、気楽に受け止めて下さい。
 この作品は添削する必要がないほどにすばらしい作品です。あなたの「桐」という樹木と「桐の花」に対する想いが滲み出ていると思います。
 作ったあなたにとっては何句目が一番気に入っていますか。私は四句目の「ほつりと落つる」がとても気に入りました。
 桐の花のような「合弁花」の散り方には「離弁花」にない「唐突さ」があります。
 「離弁花」は花びらが一枚一枚順次散っていきます。その散り残っている様子はまだ、命の名残を感じさせて、その寂寥感がじわりじわりと見る者の気持ちをとらえます。
 しかし、「合弁花」は突然、花全体が「ぽとり」と落ちます。これで、花の命は終わりです。本当に一瞬にして終焉を迎えてしまいます。
 ところが、あなたの「ほつりと落つる」という表現には「瞬時」という性急さがありません。ゆったりと散っていくという趣があるのです。
 「いつまでも咲いていてほしいという想い」と、「優しく桐の花をとらえようとする心根の現れ」でしょうか。「ゆっくりと風に舞うように落ちていく桐の花」がそこにはあります。あなたの「歌題」や「作歌の趣向」、使われている語、語句の意味を出来るだけ損なわない範囲で、次のように「添削」してみました。いかがでしょうか。

→ いにしへの/物語に読む/儚さを/ほつりと落ちて/桐花示す
→ むらさきに/儚さ捨てて/桐の花/ほつりと落ちて /永久(とわ)に咲きなむ

 あなたの想いを重視すると五句目は「咲かなむ」とした方がいいかも知れません。そうすると、「いつまでも、落ちないで咲いていてほしい」という「実現を誂え望む意」となります。
 私の「添削」したものは、いずれも、Hさんの「歌意」を越えるものではありません。あなたの主題や修辞の受け売りだけです。

 これからも、どんどん作って下さい。野の花、山の花、自然の観察から「歌」はどんどんと生まれるでしょう。そして、それら自然の風物は私たちに「人としての有りよう」も示唆してくれます。その先には「現代人が失っている自然に対する謙虚さ」があるはずです。』

 「色々なことでの問い合わせがあるものだ…(3)」は明日掲載する。