様々な美術系雑誌で特集が組まれ、
TVでも日曜美術館、ヒストリア、美の巨人などなどでも
紹介され続け、宣伝が行き届き、
いよいよあと10日に迫ってきた
東博での展覧会場は白熱を帯びている様子。
入館待ちの人の列もだんだん長く伸びそう。
そこで大胆にも
あべまつ流等伯物語をやってみることにしました。
といってもあべまつの頭整理のため、なので、
あしからずお付き合いください。
変なことに、茶道具好きが高じて利休の本を拾い始めて数年。
その中で利休の肖像画を何気なく見てきた。
利休はああいう風貌、として私の中にある。
その肖像画を描いた人が
東博の国宝室でお正月過ぎあたりに
墨一色のこの世とは思えない霊界への入り口のような
松林図を描いていた、等伯なのだ。
何かずいぶんと隔たりがあるものだと。
そのなぞが胸の中に引っかかり、ずっとくすぶり続けている。
雪舟よりも心象として情緒の共有ができそうな気がするし、
第一、心象画というジャンルが日本美術にあったのか?
悩ましい存在だった。
その上、
去年の対決展ではなんとも美しい萩芒図屏風が現れて、
ますます悩ましい存在となった。
まるで琳派じゃないかと。
彼は何者?
安土桃山、町衆たちの力が活発に動き始め、
中国一辺倒から本朝、和式も何とか食い込もうとしてきた時代。
お茶碗も唐様から長次郎の楽が生まれてくる時代。
利休の目利きが冴え冴えとしていた時代。
信長から秀吉、家康と日本地図が激変した時代。
法華経と禅宗、キリスト教も入り込む、
宗教界でもなかなか厳しい時代。
自分の信じる道を生ききるしかないような厳しい時代。
その時代で一番にぎわっていたのが、堺。
町衆の力の結集。
珍しいものがどんどん入ってきた。
商業都市 堺。
そこで力をつける、商人たち、茶人たち。
一国一城に値する茶器が動いている。
武士ならずとも、権力を握る人間のステータスとしての
茶事。
または歌を詠む力。
美学がその人を値踏みする。
その後、光悦のプロデュース力が発揮されて、
宗達たちの仕事は益々町衆たちにもてはやされていく。
文化の開花のようなわくわくする時代。
光悦達が活躍するその前に等伯は何を目指していたのか?
等伯は能登の七尾で生まれ育ったが、
幼い中に染物屋に養子に出され、
両親と離れ、さぞ悲しかったろうが、それも宿命だ。
人生初めての絵画体験もきっとそこだろう。
天地人で子供店長が涙して与六を演じたことを思えば、
等伯物語りもぜひ作ってほしい。
預けられた養父母の元の染物屋で絵を学び、
成人してからは仏画を描くようになり、
まじめで繊細で美しい仕事をしていたことは
能登時代の仏画を見て実感できる。
熱心な法華信者になるとは、
等伯の救いだったのかもしれない。
仕事のできる人は必ず誰かが光を当てることになるのだ。
地元のあちこちのお寺に仏画を奉納している。
信長が比叡山を焼いた丁度そのころ、
相次いで養父母を失って生活の基盤を探してか、
妻子供(久蔵)を伴って、心機一転、
京都に本法寺を頼って上洛する。
逆に、本法寺から救いの手があったのかもしれない。
若くして亡くなった日堯上人を描く等伯には
篤い感謝の念と深い悲しみに溢れているに違いない。
それでも、光が差すときは必ずやってくる。
法華宗門徒のつながりは系列のつながりであり、
サロン的でもあり、文化大学のようなところでもあったはずだ。
本法寺でまじめに仕事をする傍ら、
京都の文化度の高さに心震えるものがあったに違いない。
狩野派での絵の修行もさせてもらえたのではないだろうか。
絵師としての道に一筋の光。
家系図の一文にも狩野派に学んだということが書かれてあった。
その後、雪舟の住んでいた萩、長門に行って、
雲谷派に学び、長谷川と等の文字をもらったという。
(図録 長谷川家系図 仲家 参照)
雲谷等顔も狩野派に学んでいたことがあり、
後に毛利家に召抱えられ、雪舟を継承するべく
雲谷庵を拝領し、出家して雲谷等顔を名乗っている。
もしや狩野派学校で雲谷何某から
雪舟のことを教えてもらっていたのかもしれない。
美学のシンパシーは同じ底流をかぎ分けるものがあると思う。
信長の安土城に心血注いだ若き永徳率いる狩野派という
御用絵師軍団の厚い壁は、
等伯にとって、高嶺の花であったと思う。
なのに、どうして対抗することができたのか?
対決するレールは誰かが仕込んだのではないか?
宗教心の篤い人は、一心な気持ちがその仕事ぶりにも出てこよう。
等伯が本当に権力に向かっていったのだろうかと
疑問に思う。
本法寺は奇縁が付きまとっている。
本阿弥光悦の曽祖父は、本法寺を創立させた日親上人の投獄の際に
獄中で知り合ったとか。
それが縁で本法寺の再興に大きな援助をしてきた。
以来の本阿弥家の菩提寺となっている。
光悦は等伯より20歳ほど若いわけだが、
彼は父と協力して本法寺の移転に監督もするほど大きく関わっている。
等伯が七尾から来た時に頼った日襄上人は若くして亡くなったが、
その後日通上人が等伯のよりどころとして大きな存在となる。
後に日通上人の姪っ子を後妻として迎えることも
等伯にとって、大きな後ろ盾となったに違いない。
その日通上人が茶人であったり、信長の茶頭、津田宗及がいたり、
大徳寺とのつながりがあったり、
必然として、茶の名士、利休とも繋がっていったとするならば、
世の権勢として、秀吉の茶頭としての利休に
狩野派の対決軸として、絵師等伯が抜擢されてしまうのは
必然ではなかったかと。
いるだけで緊張する、現代では絶滅危惧種の揺らがない大人像。
その利休率いる千家の不審庵、今日庵は
なんと本法寺のすぐ近く道挟んだ所に今も変わらずにある。
これは運命のいたずらか。
あまりにも都合がいいではないか。
本法寺の日通上人は堺の町衆、油屋常金の息子。
信長のお茶頭、津田宗及たちとも交流する数寄風流の人。
当然、利休と交流があるに違いないし、
彼が等伯を紹介したのかもしれない。
きっと利休は等伯を気に入ったのだ。
狩野派のトップ、永徳を嫌う利休にとって
時を得た絵師現るなのだ。
その時歴史が動いたのだ!(松平氏風に)
大徳寺の天井画で等伯の力が認められるチャンス到来。
当時の大徳寺は巨大な権力を持っていた。
秀吉はその大徳寺を狙ったことがあるが、
古渓宗陳は自分の命を賭して守ったというから凄いことだ。
こういった経緯が秀吉と大徳寺の関係に小さな亀裂を生み、
次第に大きな裂け目と広がっていったのだろう。
金毛閣に利休像を置いた話は利休の命を縮めた
原因のひとつといわれているが、
秀吉の堪忍袋は何が起きても破れたのかもしれない。
堪忍袋が切れたときから、
ドミノ倒しのように等伯の身の回りから
亡くなる人続出。
その一方で等伯の名が知れ渡るという皮肉も生まれる。
永徳が亡くなってから、いよいよ等伯の輝かしい時代がやってくるのだ。
この続きはまた次回。
ながいなぁ。
しかし、こういう展開は実に面白いのであります。
お付き合いに感謝。
TVでも日曜美術館、ヒストリア、美の巨人などなどでも
紹介され続け、宣伝が行き届き、
いよいよあと10日に迫ってきた
東博での展覧会場は白熱を帯びている様子。
入館待ちの人の列もだんだん長く伸びそう。
そこで大胆にも
あべまつ流等伯物語をやってみることにしました。
といってもあべまつの頭整理のため、なので、
あしからずお付き合いください。
変なことに、茶道具好きが高じて利休の本を拾い始めて数年。
その中で利休の肖像画を何気なく見てきた。
利休はああいう風貌、として私の中にある。
その肖像画を描いた人が
東博の国宝室でお正月過ぎあたりに
墨一色のこの世とは思えない霊界への入り口のような
松林図を描いていた、等伯なのだ。
何かずいぶんと隔たりがあるものだと。
そのなぞが胸の中に引っかかり、ずっとくすぶり続けている。
雪舟よりも心象として情緒の共有ができそうな気がするし、
第一、心象画というジャンルが日本美術にあったのか?
悩ましい存在だった。
その上、
去年の対決展ではなんとも美しい萩芒図屏風が現れて、
ますます悩ましい存在となった。
まるで琳派じゃないかと。
彼は何者?
安土桃山、町衆たちの力が活発に動き始め、
中国一辺倒から本朝、和式も何とか食い込もうとしてきた時代。
お茶碗も唐様から長次郎の楽が生まれてくる時代。
利休の目利きが冴え冴えとしていた時代。
信長から秀吉、家康と日本地図が激変した時代。
法華経と禅宗、キリスト教も入り込む、
宗教界でもなかなか厳しい時代。
自分の信じる道を生ききるしかないような厳しい時代。
その時代で一番にぎわっていたのが、堺。
町衆の力の結集。
珍しいものがどんどん入ってきた。
商業都市 堺。
そこで力をつける、商人たち、茶人たち。
一国一城に値する茶器が動いている。
武士ならずとも、権力を握る人間のステータスとしての
茶事。
または歌を詠む力。
美学がその人を値踏みする。
その後、光悦のプロデュース力が発揮されて、
宗達たちの仕事は益々町衆たちにもてはやされていく。
文化の開花のようなわくわくする時代。
光悦達が活躍するその前に等伯は何を目指していたのか?
等伯は能登の七尾で生まれ育ったが、
幼い中に染物屋に養子に出され、
両親と離れ、さぞ悲しかったろうが、それも宿命だ。
人生初めての絵画体験もきっとそこだろう。
天地人で子供店長が涙して与六を演じたことを思えば、
等伯物語りもぜひ作ってほしい。
預けられた養父母の元の染物屋で絵を学び、
成人してからは仏画を描くようになり、
まじめで繊細で美しい仕事をしていたことは
能登時代の仏画を見て実感できる。
熱心な法華信者になるとは、
等伯の救いだったのかもしれない。
仕事のできる人は必ず誰かが光を当てることになるのだ。
地元のあちこちのお寺に仏画を奉納している。
信長が比叡山を焼いた丁度そのころ、
相次いで養父母を失って生活の基盤を探してか、
妻子供(久蔵)を伴って、心機一転、
京都に本法寺を頼って上洛する。
逆に、本法寺から救いの手があったのかもしれない。
若くして亡くなった日堯上人を描く等伯には
篤い感謝の念と深い悲しみに溢れているに違いない。
それでも、光が差すときは必ずやってくる。
法華宗門徒のつながりは系列のつながりであり、
サロン的でもあり、文化大学のようなところでもあったはずだ。
本法寺でまじめに仕事をする傍ら、
京都の文化度の高さに心震えるものがあったに違いない。
狩野派での絵の修行もさせてもらえたのではないだろうか。
絵師としての道に一筋の光。
家系図の一文にも狩野派に学んだということが書かれてあった。
その後、雪舟の住んでいた萩、長門に行って、
雲谷派に学び、長谷川と等の文字をもらったという。
(図録 長谷川家系図 仲家 参照)
雲谷等顔も狩野派に学んでいたことがあり、
後に毛利家に召抱えられ、雪舟を継承するべく
雲谷庵を拝領し、出家して雲谷等顔を名乗っている。
もしや狩野派学校で雲谷何某から
雪舟のことを教えてもらっていたのかもしれない。
美学のシンパシーは同じ底流をかぎ分けるものがあると思う。
信長の安土城に心血注いだ若き永徳率いる狩野派という
御用絵師軍団の厚い壁は、
等伯にとって、高嶺の花であったと思う。
なのに、どうして対抗することができたのか?
対決するレールは誰かが仕込んだのではないか?
宗教心の篤い人は、一心な気持ちがその仕事ぶりにも出てこよう。
等伯が本当に権力に向かっていったのだろうかと
疑問に思う。
本法寺は奇縁が付きまとっている。
本阿弥光悦の曽祖父は、本法寺を創立させた日親上人の投獄の際に
獄中で知り合ったとか。
それが縁で本法寺の再興に大きな援助をしてきた。
以来の本阿弥家の菩提寺となっている。
光悦は等伯より20歳ほど若いわけだが、
彼は父と協力して本法寺の移転に監督もするほど大きく関わっている。
等伯が七尾から来た時に頼った日襄上人は若くして亡くなったが、
その後日通上人が等伯のよりどころとして大きな存在となる。
後に日通上人の姪っ子を後妻として迎えることも
等伯にとって、大きな後ろ盾となったに違いない。
その日通上人が茶人であったり、信長の茶頭、津田宗及がいたり、
大徳寺とのつながりがあったり、
必然として、茶の名士、利休とも繋がっていったとするならば、
世の権勢として、秀吉の茶頭としての利休に
狩野派の対決軸として、絵師等伯が抜擢されてしまうのは
必然ではなかったかと。
いるだけで緊張する、現代では絶滅危惧種の揺らがない大人像。
その利休率いる千家の不審庵、今日庵は
なんと本法寺のすぐ近く道挟んだ所に今も変わらずにある。
これは運命のいたずらか。
あまりにも都合がいいではないか。
本法寺の日通上人は堺の町衆、油屋常金の息子。
信長のお茶頭、津田宗及たちとも交流する数寄風流の人。
当然、利休と交流があるに違いないし、
彼が等伯を紹介したのかもしれない。
きっと利休は等伯を気に入ったのだ。
狩野派のトップ、永徳を嫌う利休にとって
時を得た絵師現るなのだ。
その時歴史が動いたのだ!(松平氏風に)
大徳寺の天井画で等伯の力が認められるチャンス到来。
当時の大徳寺は巨大な権力を持っていた。
秀吉はその大徳寺を狙ったことがあるが、
古渓宗陳は自分の命を賭して守ったというから凄いことだ。
こういった経緯が秀吉と大徳寺の関係に小さな亀裂を生み、
次第に大きな裂け目と広がっていったのだろう。
金毛閣に利休像を置いた話は利休の命を縮めた
原因のひとつといわれているが、
秀吉の堪忍袋は何が起きても破れたのかもしれない。
堪忍袋が切れたときから、
ドミノ倒しのように等伯の身の回りから
亡くなる人続出。
その一方で等伯の名が知れ渡るという皮肉も生まれる。
永徳が亡くなってから、いよいよ等伯の輝かしい時代がやってくるのだ。
この続きはまた次回。
ながいなぁ。
しかし、こういう展開は実に面白いのであります。
お付き合いに感謝。