あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

奈良 法華寺 十一面観音

2009-05-22 17:39:02 | 日本美術
「古寺巡礼」の和辻哲郎
「十一面観音巡礼」の白洲正子

その二人の名文で紹介されている、十一面観音像。

白洲正子はあの蓮の葉の光背があまり
お好きではなかったようだが、
和辻哲郎にいたっては、一言もない。

・・・さびしい。
あの光背がどれだけ素敵か、感動した私の立場は・・・

しかし、二人の話によって、
天平の様々を知る事ができた。
ここにも阿修羅を生んだ、光明皇后の影響が
色濃く語られる。

東大寺を作らせた聖武天皇と、光明皇后。
この二人を取り巻く時代に
天然痘とらい患者の話が欠かせないことがわかる。
この十一面観音像は、
光明皇后のお姿を映したともいわれる。
いわれ話は根拠があやふやだけれど、
話としては、威徳、偉業があってこそ、
人々の感謝が物語を作るのだと思う。

「病が語る日本史」酒井シヅ

によると、
当時流行った疫病が大きな要因となって
藤原家の盛衰が動いたようだ。
天然痘と、らい病(ハンセン氏病)の存在。

その本文から、
気になる言葉。
 続日本記より
 「朕は疫病を治療し、民の生命を救おうと思う。
  そこで・・・金剛般若経を読誦させよ。
  ・・・疫病に苦しむ人民に(籾米などを)
  恵み与るとともに、煎じ薬を給付せよ。」
 「徳によって人民を教え導くことにまだ充分でなかった
  ために・・・朕はこのことを日夜憂い、気遣っている。
  天を仰いで慙じ、恐れている。・・・」

養老4年に光明皇后の父、藤原不比等が亡くなり、
天平7年には藤原四兄弟が相次いで天然痘で亡くなる。
朝廷も混乱を極めた。
聖武天皇は、懺悔する日々。
ただ気が弱いといわれても、こう不安定な状況で
心安からずな日々であったことには同情する。
その皇后、藤原家から初めてのお后が光明皇后。
藤原家の光だった。
この世をば、の道長の一族の始まりとも言われる。
長屋王の変を経て、
浮かび上がってきた藤原家の栄華と不幸。

聖武天皇の自己を懺悔する記録と、
光明皇后の懺悔の経文の存在、
阿修羅は懺悔の仏とNHKハイビジョン特集で
説明があったし、
阿修羅展チラシでもその言葉がある。

懺悔、という言葉は、仏教でも使われていたのか。
どうも懺悔、という言葉が気になる。
人々の不幸の原因、疫病の流行、災害飢饉
政治の不安定、
その乱世の中で天平仏教美術の荘厳が生まれる。

今現在の私達の暮らしにも通じるようだ。
新型インフルエンザの脅威に震え、おののき、
世界中の戦いの惨劇を嘆き、
地球の疲労をうすうす感じつつ、
世界中の情勢、政治は落ち着かない。
にもかかわらず、
祈り、願いだけが薄く感じるように思う。
逆に信仰の呪縛が不幸を招いている杞憂が深まる。
信仰とは?

今、上野に阿修羅がいる。

天平、その時代の仏様達から抱く
優雅さとは真逆な、どろどろとした業の深さ。
人々の暮らしが浮き彫りになる不条理。
美しい、魅力溢れる眉間には、
ただならない不幸を一身に背負った
悲しい祈り、願いが充満している。

救われない思いがその祈りとなった。
切ない表情は、とてつもない悲しみに溢れている。
でも、それに溺れている訳にはいかない、
新たな決心のようなものを感じる。
まなじりを決して。いざ。
衆生とともに。

法華寺の十一面観音像は、
肉感的で、もっと命が満ちているように思う。
もっと、遠いところで、祈りを聞いて下さるようだ。

思いがけず、天平の仏様から、
その時代へと転々と本から本へ
様々徘徊したわけだが、
苦しみが祈りを生んだ、その化身が仏様。
そこにすがるしか方法を見出せなかった人々の悲しみ。
慈しみ。

愛するために苦しみがあった。

そんなことをぐるぐる思う時間が過ぎてゆく。  

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