皇居の中に大本営があった。
一般的に大本営と言えば防衛省がある市ヶ谷台にあると思い、東京裁判の舞台となった所で、三島由紀夫はそこで割腹自殺した。しかし、大本営は、皇居にあり真の統帥機関は宮中大本営であった。
大本営(Imperial General Headquarters)は、旧陸軍と旧海軍の最高統帥機関で、「勅令第52号 戦時大本営条例」には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」とある。昭和の大本営は、陸軍部と海軍部を中核とし、陸軍部は参謀総長が、海軍部は軍令部総長が、それぞれの幕僚の長として帷幄の機務に任じた。
(注:大纛は「たいそう」と訓む)
宮中大本営での会議について外務大臣 重光葵が『片々録』(x)にこう書いている。
「自分が昭和18年4月に入閣して大本営(政府)連絡会議に出席して先ず驚いたのが、其の貧弱さで且つ遣り方の乱暴なことである。宮中の一角で室の中央に衝立が建てられて、其の一方に会議出席者が会議をなし、他の一方に海海(陸)軍人よりなる総陸海三相の秘書官又は副官及陸海下僚が控へて傍聴して居る。」
(注:文中、海海(陸)とあるのは原文のママ)
最高戦争指導会議記録第一号(昭和19年8月9日)には、重光の発言(x)が記録されている。
「(前略)本会議は構成員及び必要なる関係者のみにて開催するものと諒解する処果して然りやと質問し(衝立の背後に傍聴者ありたるを認めたるによる)(中略)外相の発言通りなりたるか当日参謀次長は説明の為め列席せる由なりしに付き外相は今後必要に応じ外務説明員を帯同すべき旨を述べたり(後略)」
大本営の会議には、大元帥閣下が出席する大本営御前会議と、同席しない会議体に分かれるが、重光が出席し感想を述べているのは、発言内容からも明らかなように後者の大元帥閣下が臨席しない会議である。
さて、宮中大本営は皇居の何処にあったのか?それは御文庫附属庫。宮内庁のホームページに書いてある。
「皇居吹上御苑の中にある御文庫附属庫は,大本営会議室等の防空用施設として,陸軍築城部本部により建設されたもので(昭和16年8月12日工事着工),昭和16年9月30日に宮内省に引継がれました。
当時,御文庫附属庫の近くでは,宮内省が昭和天皇・香淳皇后のための防空施設である御文庫を造営中でした(昭和16年5月着工,昭和17年7月工事完了)。
昭和20年には,御文庫と御文庫附属庫を結ぶ地下通路が設けられました。」
とある。(http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/)
御文庫附属庫の工事は秘匿名「戌号(ぼごう)演習」で、半蔵門にある英国大使館に気付かれる事を
吹上御所近傍の大本営防空壕、所謂、御文庫。広さは1,320㎡で地下1階、地下2階で大元帥陛下の居住スペースのほか侍従たちの部屋、映写室、ピアノ、ビリヤードなどがあったそうです。1トン爆弾に耐えうるよう屋根の厚さは3m。コンクリート層、砂層、コンクリート層の3層構造をしていました。
昭和12年11月16日、閣議において「戦時大本営条例(勅令)廃止の件」を決定し、即日大元帥閣下の允裁を仰いでいるが、裁可は翌日。
宮中大本営は、第二次上海事変を契機として設置されているが、日本帝国は、宣戦布告する事無く、支那との戦争に突入することにした。これに伴い1903年(明治36年)12月28日制定の「戦時大本営条例(勅令293号)の改正が必要となった。
11月17日午前11時、参謀総長と軍令部総長が参内し、御学問所において宮中に大本営を設置する件について内奏(2)。参謀総長は、閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)、軍令部総長は伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう)であり両名とも皇族軍人。
「今次事変は其の発生以来四か月其の規模逐次拡大し今や陸軍は出動兵力15師団約60万留守部隊を合する時は約80万陸軍動員兵力の半を過ぎ海軍は殆ど其の大部を挙げて作戦に従い軍需動員亦其の計画の大部を実行に移しつつあり是等諸戦力を統合して其の全能力を発揮せしめんが為には最高統帥部の勢力を整え之を強化するの要切なるものあり
御稜威の輝く所皇軍固より連戦連勝すと雖も茲に陸海軍策応共同以て須臾も武力圧迫の手を緩めず事変長期に亘るも敢然と彼の戦争意思を挫折せしめんとするに於いて益々然るものあり
茲に於いてか大纛の下大本営を設置し之を宮中に置かせられ度
近く夫々動員下令戦時編制実施の允裁を仰ぎ度仰き度茲に謹て上奏す」
この宮中大本営の設置により、大元帥閣下直卒による陸海軍の統率・指揮が実現。午後5時58分、陸軍大臣と海軍大臣が参内し、両大臣列立により大本営令制定と及び戦時大本営条例の廃止について上奏。
「上奏文(1937年11月17日、海軍大臣・陸軍大臣列立上奏)
今般大纛の下に大本営を設置せらるるに辺り一統帥部と政府との間に於いては常に緊密なる連絡協調を保持して政戦両略の一致に関し◯◯隙矛盾なからしめんことを期す
之が為陸海軍大臣は各国務大臣として閣議に列すると共に統帥部の一員として打本営に入り身を以て両者間の緊密なる連繋に任ずべしと雖も政戦相関連する重要案件に就ては所要に応じ関係閣僚と統帥部首脳者との会談を行い又特に重要なる案件に関しては謹で御前に会議を奉請して聖断を仰がんとす
仰々大本営は純然たる統帥の府にして国務は挙げて政府に属し両者職域の分界は厳として明なり
克く其の職域を恪守すると共に一切の因襲を排して和共同真に挙国一致の実を挙げ以て大業を輔翼し奉らんことを期す
右謹で上奏す」
大元帥閣下は「大本営令制定並施行の件」を裁可。
翌11月18日、大本営令(昭和12年軍令第1号)(3)が発せられ、即日施行された。
第一条 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
2 大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク
第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
第三条 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム
この日は、大本営令制定の他、「大本営陸軍部動員下令の件」、「大本営設置に関する件(宮城内但陸軍部事務は参謀本部 海軍部事務は軍令部に於いて施行するものとする)」、「大本営編制同勤務令」、「大本営動員計画令改正の件制定」を大元帥閣下が允裁。
陸軍においては、午後20時45分、大本営陸軍部の動員が下令。(4)当時、軍事参議官並びに陸軍教育総監であった畑俊六陸軍大将(終戦時、元帥)の日誌(5)によれば、
「11月18日 本日夜大本営動員下令せらる。当初大本営設置は参謀本部より提案したるも、陛下が第一線に立たることは国際上如何あらん。又宣戦布告は我が侵略者なりとの印象を与え不利なりとし陸軍省側より反対あり(大臣、次官のみが反対なりと伝えられたり)。多田次長の如きはかんかんとなり(部下に強要されて)一時職をやめるなんて云い出たるが、余が慰留したることもあり。其後海軍は封鎖の関係より是非宣戦布告を主張し中々折合はざりしが、窃に海軍も折れて此結果となりたるものなり。」
後半部分の海軍の宣戦布告云々に言及した部分について補足すると、日本帝国は、日中戦争を国際法上の戦争でなないとして宣戦布告をせず事変として対処してきた。この事変を「支那事変」と称したが、戦争でなく事変でも大本営が設置できるとするように軍令を改正し、宮中に設置することになったが、海軍は、7月の盧溝橋事件の発生を受け、第三艦隊が中国沿岸の海上封鎖を実施。海上封鎖は、明らかに戦争行為であり、事変とは言えない事を海軍は承知していた。また、海軍航空隊は、宮中大本営設置の前年、昭和11年(1936年)、三菱重工が96式陸上攻撃機(96式は昭和11年が皇紀2596年であることから、下二桁をとって96式と命名)後に中攻と呼ばれる航続距離4380kmを誇る爆撃機により、南京爆撃を行い国際的な避難を浴びている。海軍は、96式陸上攻撃機を上海広大飛行場に進出させ、1937年9月19日、南京空爆作戦を実施。9月25日まで11回の南京爆撃作戦を展開し、民間人を多く殺傷した。19日の空爆に関しては、翌20日、大元帥閣下に報告されている。(6)畑の日誌にある海軍の宣戦布告云々の背景には中国沿岸の海上封鎖と無差別の戦略爆撃がある。
敗戦後、内大臣 木戸幸一に対する尋問調書(7)の第11回尋問(1946年2月6日)に支那事変を契機とする大本営設置についてのやり取りがある。
問 大本営自体は平時にも設置されていますか?
答 いいえ
問 平時には軍令部と参謀本部が別々に存在し、大本営は機能しないのですか?
答 はい。
問 1941年夏に御前会議が何回か開かれたのを知っているものですから、少し理解できない点があります。今までの話によれば、御前会議の前に両総長と総理大臣の間である種の連絡会議をもって、そこで御前会議を始める前におのおのの言い分を徹底的に議論したはずです。大本営が存在していないのなら、この連絡会議はどこで開かれたのですか?
答 支那事変の勃発以来、大本営が置かれていましたから。
問 日本は支那事変を、少なくとも政府としては、公式に戦争と認めていなかったが、十分に戦争と言えるものだったので大本営が置かれ機能していたのですか?
答 置かれていたと思います。
問 日本が支那事変を一般的な意味での戦争と認めていたかどうかについては若干疑問があります。これは戦争と呼ばずに事変と呼ばれていたが、大本営を置くに値する戦争であったのですね?
答 あまりはっきりしたことはわかりません。
木戸幸一を尋問したのはヘンリー・R・サケットで、支那事変は「十分に戦争と言えるものだったので大本営が置かれ機能していたのですか?」との問い対し、木戸幸一から「置かれていたと思います」との返答を得た。彼は畳み掛け「支那事変は、大本営を置くに値する戦争であった(略)」との指摘受け、内大臣 木戸幸一は回答に窮した。つまり「あまりはっきりしたことはわかりません。」とあるは、「その通りです」と言うこと。支那事変ではなく支那戦争。
動員一日目となる19日午前10時、大本営幹部職員は総長室に於いて戦時命課に捺印し総長に申告。その他の職員は、各部長各長官室において戦時命課を伝達された。木戸幸一日記の同日の記載(7)によれば、
「11月19日(金)晴 (前略)10時、閣議に列席す。大本営と政府との連携に関する件を決す。余は今回の大本営条例には、戦時のみならず事変を加へたるところ、事変の程度につき研究せられたるやを質したるに、陸軍大臣より事変の程度につきては別に定義的の研究はなさざるも、大体宣戦の布告を為すが如き程度、即ち全軍に動員下令せらるるが如き場合にあらざれば、設置せられざるものと解するとの答弁がありたり。(後略)」
木戸幸一が出席した閣議において記載の通り政戦の連繋について討議され、下記の通り発表された。(8)
一、 大本営と政府の連絡については政府と大本営のメンバーとの間に「随時会談」の協議体を作り随時これを開くこととする、この両者の会談は特に名称を附せずまた官制にもよらず事実上の会議とする
二、 随時会議は参謀総長、軍令部総長の外陸海軍大臣、内閣総理大臣及び所要の閣僚を以て構成するが、閣僚の銓衡については内閣書記官長、陸海軍軍務局長において討議すべき事項と共に人選をなすこととする。但し実際の運用については参謀総長、軍令部総長は出席されず、参謀次長軍令部次長が主として出席する
三、 特に重要なる事項の場合は御前会議を奉請し参謀総長、軍令部総長の外陸海軍大臣及び特旨により総理大臣が列席し場合によっては恩召により閣僚も列席することもある、御前会議は総理大臣より奉請する場合と参謀総長、軍令部総長より奉請する場合とある
四、 右協議体の幹事役は内閣書記官長、陸海軍両軍務局長がこれに当る
20日には宮中大本営の動員が完了。同日11時、軍令部総長・伏見宮博恭王が参内(9)し、大本営設置に伴う帝国海軍戦時編制の実施につき上奏し、大本営設置に関する陸海軍交渉の経緯などについて大元帥閣下と面談。
宮中大本営の件について正式に、午後14時40分、御学問所において参謀総長・閑院宮載仁親王と軍令部総長が大元帥閣下の下に伺候し、宮中大本営の動員完了を報告、15時、大元帥閣下は、大本営設置に伴う陸軍関係の上奏を裁可した。
この時、宮中大本営設置の他、「動員完結の件」、「大本営陸軍部職員表の件」、「大本営陸軍部執務要領の件」、「兵站総監部勤務令制定の件」、「戦時高等司令部勤務中改定の件」、「兵站兵器部の隷属並勤務に関する件」、「昭和9年動員計画令附録並昭和12年動員計画令改正の件」を裁可。
大本営陸軍部&海軍部の編制は、以下の通り。
1.大本営陸軍参謀部
参謀総長 大将 一
参謀次長 大(中)将 一
大本営陸軍参謀 中(少)将 三
佐(尉)官 四七
海軍は、大本営令を受け、帝国海軍戦時編制を実施。中国沿岸の海上封鎖は、宮中大本営設置に併せ新設された支那方面艦隊の指揮下に置かれ、初代艦隊司令官には第三艦隊の長谷川中将が任命された。中将は直ちに隷下の第四艦隊を封鎖部隊とし、徹底的な海上封鎖を命じた。この支那方面艦隊は、連合艦隊に次ぐ大艦隊である。これにより宣戦布告なき戦争が始まった。
19日午後4時、陸海軍省発表として宮中に大本営が設置されたことが発表された。
海軍は、同日、海軍航空隊が爆撃を行うことから、南京駐在の外交機関・各国居留民と南京市民に対し次の通告文を発表(x)。
「通告文(9月19日付)
我が海軍航空隊は、9月21日正午以後、南京市および付近における支那軍ならびに作戦および軍事行動に関係あるいっさいの施設に対し、爆撃その他の加害手段を加えることあるべし。(中略)
第三艦隊長官においては南京市および付近に在住する友好国官警および国民に対し、自発的に適時安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず、なお、揚子江に避難せらるるむき、および警備艦隊は下三山上流に避泊せられんことを希望す。」
翌20日には警告文が出された。
「警告文(9月20付)
帝国海軍航空隊は、爾今南京市およびその付近における支那軍隊その他作戦および軍事行動に関係さる一切の関係ある施設に対し、当該各人自身の危険においても、その起こるべき危害にともなう責任は、我が軍においてはこれを負わざるべし。」
支那に宣戦布告していない日本が、南京への爆撃を宣言したことは、主要国の反発を巻き起こしている。『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』の著者:笹原十九司は、海軍が日本を孤立させたと書いている。
参謀総長は、宮中大本営の編成が完了した事を以て以下のように訓示。
「茲に大本営の編成が成るに方り大本営陸軍部各職員に訓示す。
今や陸海軍協力北支に、内蒙に、将た中支に至る処赫々の戦績を収め以て皇軍の威武を中外に顕揚せり然れと雖未だ出帥の目的を達成するに至らず加ふるに「ソ」聯邦の動向處かに予断し難く国際政局の前途亦楽観を許さざるものあるに鑑みるとき北支、内蒙方面将兵に賜りたる勅語に宣べるが如く時局の前程は更に遼遠なりと謂ふべし
諸官此の秋に方り戦を大本営陸軍部に奉ず宜しく各々其職責を遂行し戮力協心以て大本営設置の聖旨に副ひた奉らんことを期すべし
昭和12年11月20日
参謀総長 載仁親王」」
12月22日午前10時30分、宮中大本営の編成完了に付き参謀総長 閑院宮載仁親王と軍令部総長 伏見宮博恭王以下の陸海軍部の将官を御学問所にて接見、将官以外の大本営職員も拝謁。陸軍部職員198名、海軍部職員113名(x)。
一般的に大本営と言えば防衛省がある市ヶ谷台にあると思い、東京裁判の舞台となった所で、三島由紀夫はそこで割腹自殺した。しかし、大本営は、皇居にあり真の統帥機関は宮中大本営であった。
大本営(Imperial General Headquarters)は、旧陸軍と旧海軍の最高統帥機関で、「勅令第52号 戦時大本営条例」には「天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス」とある。昭和の大本営は、陸軍部と海軍部を中核とし、陸軍部は参謀総長が、海軍部は軍令部総長が、それぞれの幕僚の長として帷幄の機務に任じた。
(注:大纛は「たいそう」と訓む)
宮中大本営での会議について外務大臣 重光葵が『片々録』(x)にこう書いている。
「自分が昭和18年4月に入閣して大本営(政府)連絡会議に出席して先ず驚いたのが、其の貧弱さで且つ遣り方の乱暴なことである。宮中の一角で室の中央に衝立が建てられて、其の一方に会議出席者が会議をなし、他の一方に海海(陸)軍人よりなる総陸海三相の秘書官又は副官及陸海下僚が控へて傍聴して居る。」
(注:文中、海海(陸)とあるのは原文のママ)
最高戦争指導会議記録第一号(昭和19年8月9日)には、重光の発言(x)が記録されている。
「(前略)本会議は構成員及び必要なる関係者のみにて開催するものと諒解する処果して然りやと質問し(衝立の背後に傍聴者ありたるを認めたるによる)(中略)外相の発言通りなりたるか当日参謀次長は説明の為め列席せる由なりしに付き外相は今後必要に応じ外務説明員を帯同すべき旨を述べたり(後略)」
大本営の会議には、大元帥閣下が出席する大本営御前会議と、同席しない会議体に分かれるが、重光が出席し感想を述べているのは、発言内容からも明らかなように後者の大元帥閣下が臨席しない会議である。
さて、宮中大本営は皇居の何処にあったのか?それは御文庫附属庫。宮内庁のホームページに書いてある。
「皇居吹上御苑の中にある御文庫附属庫は,大本営会議室等の防空用施設として,陸軍築城部本部により建設されたもので(昭和16年8月12日工事着工),昭和16年9月30日に宮内省に引継がれました。
当時,御文庫附属庫の近くでは,宮内省が昭和天皇・香淳皇后のための防空施設である御文庫を造営中でした(昭和16年5月着工,昭和17年7月工事完了)。
昭和20年には,御文庫と御文庫附属庫を結ぶ地下通路が設けられました。」
とある。(http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/)
御文庫附属庫の工事は秘匿名「戌号(ぼごう)演習」で、半蔵門にある英国大使館に気付かれる事を
吹上御所近傍の大本営防空壕、所謂、御文庫。広さは1,320㎡で地下1階、地下2階で大元帥陛下の居住スペースのほか侍従たちの部屋、映写室、ピアノ、ビリヤードなどがあったそうです。1トン爆弾に耐えうるよう屋根の厚さは3m。コンクリート層、砂層、コンクリート層の3層構造をしていました。
昭和12年11月16日、閣議において「戦時大本営条例(勅令)廃止の件」を決定し、即日大元帥閣下の允裁を仰いでいるが、裁可は翌日。
宮中大本営は、第二次上海事変を契機として設置されているが、日本帝国は、宣戦布告する事無く、支那との戦争に突入することにした。これに伴い1903年(明治36年)12月28日制定の「戦時大本営条例(勅令293号)の改正が必要となった。
11月17日午前11時、参謀総長と軍令部総長が参内し、御学問所において宮中に大本営を設置する件について内奏(2)。参謀総長は、閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)、軍令部総長は伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう)であり両名とも皇族軍人。
「今次事変は其の発生以来四か月其の規模逐次拡大し今や陸軍は出動兵力15師団約60万留守部隊を合する時は約80万陸軍動員兵力の半を過ぎ海軍は殆ど其の大部を挙げて作戦に従い軍需動員亦其の計画の大部を実行に移しつつあり是等諸戦力を統合して其の全能力を発揮せしめんが為には最高統帥部の勢力を整え之を強化するの要切なるものあり
御稜威の輝く所皇軍固より連戦連勝すと雖も茲に陸海軍策応共同以て須臾も武力圧迫の手を緩めず事変長期に亘るも敢然と彼の戦争意思を挫折せしめんとするに於いて益々然るものあり
茲に於いてか大纛の下大本営を設置し之を宮中に置かせられ度
近く夫々動員下令戦時編制実施の允裁を仰ぎ度仰き度茲に謹て上奏す」
この宮中大本営の設置により、大元帥閣下直卒による陸海軍の統率・指揮が実現。午後5時58分、陸軍大臣と海軍大臣が参内し、両大臣列立により大本営令制定と及び戦時大本営条例の廃止について上奏。
「上奏文(1937年11月17日、海軍大臣・陸軍大臣列立上奏)
今般大纛の下に大本営を設置せらるるに辺り一統帥部と政府との間に於いては常に緊密なる連絡協調を保持して政戦両略の一致に関し◯◯隙矛盾なからしめんことを期す
之が為陸海軍大臣は各国務大臣として閣議に列すると共に統帥部の一員として打本営に入り身を以て両者間の緊密なる連繋に任ずべしと雖も政戦相関連する重要案件に就ては所要に応じ関係閣僚と統帥部首脳者との会談を行い又特に重要なる案件に関しては謹で御前に会議を奉請して聖断を仰がんとす
仰々大本営は純然たる統帥の府にして国務は挙げて政府に属し両者職域の分界は厳として明なり
克く其の職域を恪守すると共に一切の因襲を排して和共同真に挙国一致の実を挙げ以て大業を輔翼し奉らんことを期す
右謹で上奏す」
大元帥閣下は「大本営令制定並施行の件」を裁可。
翌11月18日、大本営令(昭和12年軍令第1号)(3)が発せられ、即日施行された。
第一条 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
2 大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ置ク
第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
第三条 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム
この日は、大本営令制定の他、「大本営陸軍部動員下令の件」、「大本営設置に関する件(宮城内但陸軍部事務は参謀本部 海軍部事務は軍令部に於いて施行するものとする)」、「大本営編制同勤務令」、「大本営動員計画令改正の件制定」を大元帥閣下が允裁。
陸軍においては、午後20時45分、大本営陸軍部の動員が下令。(4)当時、軍事参議官並びに陸軍教育総監であった畑俊六陸軍大将(終戦時、元帥)の日誌(5)によれば、
「11月18日 本日夜大本営動員下令せらる。当初大本営設置は参謀本部より提案したるも、陛下が第一線に立たることは国際上如何あらん。又宣戦布告は我が侵略者なりとの印象を与え不利なりとし陸軍省側より反対あり(大臣、次官のみが反対なりと伝えられたり)。多田次長の如きはかんかんとなり(部下に強要されて)一時職をやめるなんて云い出たるが、余が慰留したることもあり。其後海軍は封鎖の関係より是非宣戦布告を主張し中々折合はざりしが、窃に海軍も折れて此結果となりたるものなり。」
後半部分の海軍の宣戦布告云々に言及した部分について補足すると、日本帝国は、日中戦争を国際法上の戦争でなないとして宣戦布告をせず事変として対処してきた。この事変を「支那事変」と称したが、戦争でなく事変でも大本営が設置できるとするように軍令を改正し、宮中に設置することになったが、海軍は、7月の盧溝橋事件の発生を受け、第三艦隊が中国沿岸の海上封鎖を実施。海上封鎖は、明らかに戦争行為であり、事変とは言えない事を海軍は承知していた。また、海軍航空隊は、宮中大本営設置の前年、昭和11年(1936年)、三菱重工が96式陸上攻撃機(96式は昭和11年が皇紀2596年であることから、下二桁をとって96式と命名)後に中攻と呼ばれる航続距離4380kmを誇る爆撃機により、南京爆撃を行い国際的な避難を浴びている。海軍は、96式陸上攻撃機を上海広大飛行場に進出させ、1937年9月19日、南京空爆作戦を実施。9月25日まで11回の南京爆撃作戦を展開し、民間人を多く殺傷した。19日の空爆に関しては、翌20日、大元帥閣下に報告されている。(6)畑の日誌にある海軍の宣戦布告云々の背景には中国沿岸の海上封鎖と無差別の戦略爆撃がある。
敗戦後、内大臣 木戸幸一に対する尋問調書(7)の第11回尋問(1946年2月6日)に支那事変を契機とする大本営設置についてのやり取りがある。
問 大本営自体は平時にも設置されていますか?
答 いいえ
問 平時には軍令部と参謀本部が別々に存在し、大本営は機能しないのですか?
答 はい。
問 1941年夏に御前会議が何回か開かれたのを知っているものですから、少し理解できない点があります。今までの話によれば、御前会議の前に両総長と総理大臣の間である種の連絡会議をもって、そこで御前会議を始める前におのおのの言い分を徹底的に議論したはずです。大本営が存在していないのなら、この連絡会議はどこで開かれたのですか?
答 支那事変の勃発以来、大本営が置かれていましたから。
問 日本は支那事変を、少なくとも政府としては、公式に戦争と認めていなかったが、十分に戦争と言えるものだったので大本営が置かれ機能していたのですか?
答 置かれていたと思います。
問 日本が支那事変を一般的な意味での戦争と認めていたかどうかについては若干疑問があります。これは戦争と呼ばずに事変と呼ばれていたが、大本営を置くに値する戦争であったのですね?
答 あまりはっきりしたことはわかりません。
木戸幸一を尋問したのはヘンリー・R・サケットで、支那事変は「十分に戦争と言えるものだったので大本営が置かれ機能していたのですか?」との問い対し、木戸幸一から「置かれていたと思います」との返答を得た。彼は畳み掛け「支那事変は、大本営を置くに値する戦争であった(略)」との指摘受け、内大臣 木戸幸一は回答に窮した。つまり「あまりはっきりしたことはわかりません。」とあるは、「その通りです」と言うこと。支那事変ではなく支那戦争。
動員一日目となる19日午前10時、大本営幹部職員は総長室に於いて戦時命課に捺印し総長に申告。その他の職員は、各部長各長官室において戦時命課を伝達された。木戸幸一日記の同日の記載(7)によれば、
「11月19日(金)晴 (前略)10時、閣議に列席す。大本営と政府との連携に関する件を決す。余は今回の大本営条例には、戦時のみならず事変を加へたるところ、事変の程度につき研究せられたるやを質したるに、陸軍大臣より事変の程度につきては別に定義的の研究はなさざるも、大体宣戦の布告を為すが如き程度、即ち全軍に動員下令せらるるが如き場合にあらざれば、設置せられざるものと解するとの答弁がありたり。(後略)」
木戸幸一が出席した閣議において記載の通り政戦の連繋について討議され、下記の通り発表された。(8)
一、 大本営と政府の連絡については政府と大本営のメンバーとの間に「随時会談」の協議体を作り随時これを開くこととする、この両者の会談は特に名称を附せずまた官制にもよらず事実上の会議とする
二、 随時会議は参謀総長、軍令部総長の外陸海軍大臣、内閣総理大臣及び所要の閣僚を以て構成するが、閣僚の銓衡については内閣書記官長、陸海軍軍務局長において討議すべき事項と共に人選をなすこととする。但し実際の運用については参謀総長、軍令部総長は出席されず、参謀次長軍令部次長が主として出席する
三、 特に重要なる事項の場合は御前会議を奉請し参謀総長、軍令部総長の外陸海軍大臣及び特旨により総理大臣が列席し場合によっては恩召により閣僚も列席することもある、御前会議は総理大臣より奉請する場合と参謀総長、軍令部総長より奉請する場合とある
四、 右協議体の幹事役は内閣書記官長、陸海軍両軍務局長がこれに当る
20日には宮中大本営の動員が完了。同日11時、軍令部総長・伏見宮博恭王が参内(9)し、大本営設置に伴う帝国海軍戦時編制の実施につき上奏し、大本営設置に関する陸海軍交渉の経緯などについて大元帥閣下と面談。
宮中大本営の件について正式に、午後14時40分、御学問所において参謀総長・閑院宮載仁親王と軍令部総長が大元帥閣下の下に伺候し、宮中大本営の動員完了を報告、15時、大元帥閣下は、大本営設置に伴う陸軍関係の上奏を裁可した。
この時、宮中大本営設置の他、「動員完結の件」、「大本営陸軍部職員表の件」、「大本営陸軍部執務要領の件」、「兵站総監部勤務令制定の件」、「戦時高等司令部勤務中改定の件」、「兵站兵器部の隷属並勤務に関する件」、「昭和9年動員計画令附録並昭和12年動員計画令改正の件」を裁可。
大本営陸軍部&海軍部の編制は、以下の通り。
1.大本営陸軍参謀部
参謀総長 大将 一
参謀次長 大(中)将 一
大本営陸軍参謀 中(少)将 三
佐(尉)官 四七
海軍は、大本営令を受け、帝国海軍戦時編制を実施。中国沿岸の海上封鎖は、宮中大本営設置に併せ新設された支那方面艦隊の指揮下に置かれ、初代艦隊司令官には第三艦隊の長谷川中将が任命された。中将は直ちに隷下の第四艦隊を封鎖部隊とし、徹底的な海上封鎖を命じた。この支那方面艦隊は、連合艦隊に次ぐ大艦隊である。これにより宣戦布告なき戦争が始まった。
19日午後4時、陸海軍省発表として宮中に大本営が設置されたことが発表された。
海軍は、同日、海軍航空隊が爆撃を行うことから、南京駐在の外交機関・各国居留民と南京市民に対し次の通告文を発表(x)。
「通告文(9月19日付)
我が海軍航空隊は、9月21日正午以後、南京市および付近における支那軍ならびに作戦および軍事行動に関係あるいっさいの施設に対し、爆撃その他の加害手段を加えることあるべし。(中略)
第三艦隊長官においては南京市および付近に在住する友好国官警および国民に対し、自発的に適時安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず、なお、揚子江に避難せらるるむき、および警備艦隊は下三山上流に避泊せられんことを希望す。」
翌20日には警告文が出された。
「警告文(9月20付)
帝国海軍航空隊は、爾今南京市およびその付近における支那軍隊その他作戦および軍事行動に関係さる一切の関係ある施設に対し、当該各人自身の危険においても、その起こるべき危害にともなう責任は、我が軍においてはこれを負わざるべし。」
支那に宣戦布告していない日本が、南京への爆撃を宣言したことは、主要国の反発を巻き起こしている。『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』の著者:笹原十九司は、海軍が日本を孤立させたと書いている。
参謀総長は、宮中大本営の編成が完了した事を以て以下のように訓示。
「茲に大本営の編成が成るに方り大本営陸軍部各職員に訓示す。
今や陸海軍協力北支に、内蒙に、将た中支に至る処赫々の戦績を収め以て皇軍の威武を中外に顕揚せり然れと雖未だ出帥の目的を達成するに至らず加ふるに「ソ」聯邦の動向處かに予断し難く国際政局の前途亦楽観を許さざるものあるに鑑みるとき北支、内蒙方面将兵に賜りたる勅語に宣べるが如く時局の前程は更に遼遠なりと謂ふべし
諸官此の秋に方り戦を大本営陸軍部に奉ず宜しく各々其職責を遂行し戮力協心以て大本営設置の聖旨に副ひた奉らんことを期すべし
昭和12年11月20日
参謀総長 載仁親王」」
12月22日午前10時30分、宮中大本営の編成完了に付き参謀総長 閑院宮載仁親王と軍令部総長 伏見宮博恭王以下の陸海軍部の将官を御学問所にて接見、将官以外の大本営職員も拝謁。陸軍部職員198名、海軍部職員113名(x)。