今学期は修士課程で滝浦氏の『日本の敬語論』の第2部、博士課程でGoffmanのface-workから読み始めている。
今日の『日本の敬語論』ではBrown & Levinsonのポライトネス理論について、それが受動性と能動性をもっており、社会言語学的コードが強くて選ばされるポライトネスと、相互作用の中で自ら選ぶポライトネスの両方が含意されているという指摘があった。
これはBrown & Levinsonには必ずしも明瞭に説明されていない点だが、とても興味深い。なぜなら、それは言語の規則によって生成される側面と、意図によって意識的に選択される側面とを見ているからだ。この意識的な選択という側面がすぐに言語管理的な側面に直結するというわけにはいかないが、滝浦氏は注釈でネウストプニーの業績を評価しているように、我々と似た言語使用の諸相を見ているのだと思う。
Brown & Levinsonの場合には、むしろストラテジーの使用が諸条件(関係、権力、負荷)による自動的な生成のように感じられてしまうのはぼくだけだろうか?
今日の『日本の敬語論』ではBrown & Levinsonのポライトネス理論について、それが受動性と能動性をもっており、社会言語学的コードが強くて選ばされるポライトネスと、相互作用の中で自ら選ぶポライトネスの両方が含意されているという指摘があった。
これはBrown & Levinsonには必ずしも明瞭に説明されていない点だが、とても興味深い。なぜなら、それは言語の規則によって生成される側面と、意図によって意識的に選択される側面とを見ているからだ。この意識的な選択という側面がすぐに言語管理的な側面に直結するというわけにはいかないが、滝浦氏は注釈でネウストプニーの業績を評価しているように、我々と似た言語使用の諸相を見ているのだと思う。
Brown & Levinsonの場合には、むしろストラテジーの使用が諸条件(関係、権力、負荷)による自動的な生成のように感じられてしまうのはぼくだけだろうか?