フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

Goffman, Brown and Levinson そしてJ.V.Neustupny

2009-05-19 23:36:35 | today's seminar
先週の週末は娘の中学の体育祭があった。中学生は素晴らしい。男の子たちはサラブレットのように駆け抜け、女の子たちは鹿のように飛び跳ねる。その身のこなしのなんと軽いこと!それは高校生になるときっと消えてしまう軽さなのだと思う。

大学院授業のメモ。

Brown and Levinson(1987)には周知のようにポライトネス研究再考といった趣の序があって、Goffmanへの関心の喚起や、Leechのポライトネス原理に対する批判がある。

少し読み始めると、彼らのポライトネス理論の前提にあるグライスとの関係を自己解説した部分に、ポライトネスをグライスの公理(格率)からの逸脱deviationとしてとらえていたことが述べられている。逸脱という言葉はGoffmanにも見られるが、B&Lにもまさにネウストプニーが言う意味での逸脱、つまり不適切であったり一貫していなかったりすることについて使っている。逸脱という言葉に眉をひそめる向きがあるとしたら、それはB&Lのポライトネスのプロセスについての考察にもおそらく理解が至らないということになるかもしれない。

GoffmanのFace-workの論文には、主なface-workとして回避avoidanceと訂正correctiveがあげられており、faceの侵害を事前に回避する場合から、それを維持したり、事後に回復するような行為について考察が行われている。これもまたぼくには極めてわかりやすい論述の流れであって、ネウストプニーの言語管理理論が明らかに彼らと同時代的な土壌から生まれていることがわかる。

Goffmanには社会に対する考察の面が強い(何しろfaceはデュルケームの神聖性が個人に内在化されて、社会の統合のくさびになっていると主張しているほどだ)。B&Lもまたデュルケームの言葉を巻頭言として載せているが、どうしても社会の考察が背景化してしまう(おそらくはfaceをひとのwantとしたことに遠因がありそう)。同じようにネウストプニーでもディスコース上の管理を語りながらマクロな社会の管理(言語政策)については背景化が起こっている。おそらくディスコースといいながら、個人の意識や内面を強調してしまう契機が混じってしまったことが原因の1つとなっている可能性がある。Goffmanには身振りや仕草といった相互作用の演技的な面を社会と個人の境界線としてとらえる目があり、心理を扱っているようでいてそうではない。

それにしもて滝浦氏の文章(「日本の敬語論」)は冴えている。かなりの論考はB&Lを下敷きにしているとしても、言いたいことをずばりとわかりやすく言えるのはなかなかのもので、どても勉強になる。
コメント
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