フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

劉少奇を想う

2005-12-04 23:34:47 | visiting hunan uni
その後、また30分余り走ったところに、元国家主席劉少奇の故居があります。こちらは開けた土地のあいだに低い丘がところどころに見られますが、そうした丘のやはりふもと、大きな溜池のような丸い池の畔に建っています。

毛沢東故居よりずっと部屋数も多く、塀もありますが、やはり家畜小屋も一緒で、脱穀機や麦や稲をたたく3連の石の槌が取り付けられていたりします。劉少奇は小地主の息子であったのです。毛沢東の故居もそうでしたが、劉少奇の家の暗い部屋を見て歩きながら窓にはガラスはもちろん紙も貼っていないので冬はどうしていたのかと不思議に思いました。冬は湿気が多く、5,6度まで下がるのだそうです。夜は板戸を立てるのですが、昼間は湿気を逃がすために風が通るままにしていたとのこと。

故居から少し丘を登ると、そこには博物館が建ち、中国の旗が風になびく、いかにも政府肝いりの施設が見えてきます。中には劉少奇の一生と活動が写真や年譜、農村調査のときに使った長靴、モスクワ留学時の革トランクなどが展示されています。現在、劉少奇は?小平を経由して現在の中国政府の方針のおおもとに位置づけられているようです。

しかし、劉少奇の写真を見ると、どの写真も穏やかな優しい顔をしています。国家主席となっても権力者の顔に変わっていないことがとても不思議です。私たちの車の運転手(大学専属)は、精悍で野性味たっぷりの人ですが、彼のことを「完璧な人」と呼んでいます。

一緒に歩いてくれた先生が2度も話してくれたのはこんな話です。文化大革命で失脚した劉少奇は開封で死去し灰となったのですが、死んだ老人が劉少奇だとは誰も知らなかったのです。しかし、弔った開封の役人が誰も灰を引き取りにこないことを不審に思い、重要人物なのかもしれないと、その遺灰を隠して保管していたそうです。80年の名誉回復の後、ようやくそれが劉少奇の遺灰であることがわかったわけです。遺灰は劉少奇夫人によって海に撒かれました。

文革の話はさておき、湖南省からは革命家が輩出しています。この言うなれば中国の中では当時貧しい田舎でしかなかった湖南になぜ毛沢東や劉少奇が出てきたのか?ある人はそれを岳麓書院の学風から説明したり、直情型と言われる湖南人の気質などに帰したりする場合もあるようです。しかし、竹内実編集による『中国はどこに行くのかー毛沢東初期詞文集』(岩波現代文庫)などを読むと、清から中華民国へと至る軍閥割拠の時代に湖南省は南と北の有力勢力がせめぎ合う戦場であり、略奪の土地だったことがわかります。中国近代史の矛盾が湖南省に集中して現れていたとも言えるようです。
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