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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

基礎・応用・実践

2007-06-06 23:12:28 | today's seminar
今日の授業ではセリガーとショハミーのリサーチマニュアルを読み始めましたが、その第1章に、外国語教育研究では、基礎研究・応用研究・実践研究の区別が有効だと書かれています。基礎研究は普遍性を求める研究(e.g.関係節についての普遍)、応用研究はその個別言語ごとの普遍原理の適用(e.g.ここの言語での関係節の習得のスピード)、そして実践研究は応用研究の成果を実際に授業で試して結果をさがす、というわけです。

まあ、ありふれた分類なのですが、それでもときどきこの3分類を頭に描くのは悪いことではないと思いました。博士後期の学生さんのテーマは人称詞ですが、ではその基礎研究はどうなるだろうか?待遇でしょうか、というので、人間の言語には待遇が必ずあり、それは人間関係を調整する役割があること、と言い換えると、この待遇とは日本語学や言語学ではなく、むしろ社会学に近いところに基礎研究の基礎があるとも言えるのでは?といった議論が出来ます。すると、日本語学から始めていた人称詞研究の前提がさらに深いところで理解できるように思います。

さて、接触場面研究の基礎研究は何でしょう?
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スピーチコミュニティ

2007-05-16 23:37:09 | today's seminar
今週はハイムズのFoundation of Sociolinguistics (1974)の第2章のうち、スピーチコミュニティについての節です。

ここではスピーチコミュニティの定義について書いています。そのために、言語とコミュニティを混同してしまう問題点を豊富な例とともに話していきます。言語が同じだからと言って、コミュニティも同じとは限らない。そもそも言語が同じとは何を意味しているか?起源、理解可能性、そして...。どれも一致するとは限らないのです。ハイムズはそこでネウストプニーのsprechbundとsprachbundの区別を引用して、言語と話し方ways of speakingの2つが重要なことを語っていきます。

ただし、ここからハイムズの筆は難渋し始めます。これら2つの知識を持つことでコミュニティに参加することは可能になるが、それはメンバーになることと同じではない。メンバーになるということはもっと別な、説明出来ない基準があるし、だからスピーチコミュニティの考察には問題があることを認めながら定義をすると言うわけです。

そこから授業も難渋し始めました。それは複雑な政治や社会や歴史が絡まってきて、具体的に考えようとすればするほど心が揺れていくからです。今年の授業には日本人がいませんが、中国について考えても、スリランカについて考えても、やはり簡単なことではないのです。

ハイムズ、そしてネウストプニーの理論はとても明晰で合理的な印象が強いのですが、ハイムズの難渋を見ると、われわれの接触場面研究の足下にも多くの難渋があることを思い起します。
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Dell Hymesはなぜ母語話者と言わないか?

2007-05-09 22:03:14 | today's seminar
大学院では引き続きHymes (1974)を読んでいます。第2章「言語と社会生活の相互作用の研究」、ここに接触場面研究の最も重要な概念の探求があります。今週はその前半を読んでいました。

そこに「流暢な話し手fluent speaker」というチョムスキーの概念が批判される節があります。抽象的な文法能力の研究においては流暢な話し手の能力を明らかにすることが目的なのだが、エスノグラフィーにとっては使い物にならないとハイムズは述べます。なぜなら「流暢であること」が必ずしも話し手の理想的なあり方ではないようなコミュニティがいくらでもあるからです。簡単に言うと、話さないことのほうが理想的であるような社会があるし、言葉がその社会においてどのような地位を持っているかによって話し手の概念は変わってくるのです。

なるほど!とみんな納得したのですが、しかしちょっと不思議なのはなぜハイムズはこの本の中で母語話者とか非母語話者という概念を使わないのかということでした。

じつはハイムズはこの本のさまざまなところで、1つの言語システムしか使わない人間はいないとして、バイリンガルはもちろんのこと、方言と標準語、丁寧体と普通体、先日述べたfootingなどさまざまな変種をわれわれは使うことができることを指摘しています。つまり、母語という概念は、こうしたさまざまな変種の知識を表現するためにはもっともふさわしくないということになるでしょう。言い換えると、母語という概念には、逆説的ですが、1つの言語システム(つまり標準語のことが前提になっているのかな)という前提が含まれているのだと思います。

ではどういえばよいか?

ー「中国語の話し手」ではどうですか?
ーでもそうすると、中国人ではなくても「中国語の話し手」になれますよね。
ーもちろん。それでいいんじゃない?
ー「中国語の話し手」というのは能力ですか、それとも状態?
ー状態です。

この議論から、多言語使用者の概念までは、目と鼻の先なわけです。
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ゼミの懇親会

2007-04-27 23:10:49 | today's seminar
怒濤のような忙しさだった4月も気がつけばあと数日。
今日は大学院ゼミ、学部ゼミ合同の懇親会でした。総勢25人はいたんじゃないでしょうか。一室借り切り状態で2時間ほど若さいっぱいの学生さん達の中に浮かんでおりました。

「世界の仲間」にも時々投稿してくれた山本さんが韓国順天の仕事を終えて帰国。研究室を訪ねてくれたので、いっしょに懇親会にも参加してもらいました。4年も順天の高校で教えていたので、帰国するのは寂しいと思うほど、その土地になじんでいたようです。スピーチを少ししてもらいましたが、順天は狭い土地らしく、ほとんどアイドル状態で過ごしていたというのにはみんな楽しく大笑い。やっぱり4年も先生をすると、即興でも上手に話ができるようになるものですね。たいしたものです。

それにしても最近は書類仕事が多すぎです。計画書とか報告書とか、そんなのばっかりです。そのうちソフトクリーム購入計画書とか睡眠5時間報告書とか書く羽目になったりして。
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大切なことば

2007-04-13 23:36:17 | today's seminar
冷たい雨や強風が4月に入って繰り返し、サクラもすっかり葉桜です。

キャンパスにはかわって学生達であふれかえっていますが、その彼らの上にのびる木々も薄もやのように若い葉が萌えはじめています。

ガイダンスも一通り終わり、昨日から授業開始でした。今日は3時間続き3つの演習の最初の日でした。スケジュールや自己紹介やで過ごしたのですが、学部のゼミは19人にもなっていて多すぎですね。型どおりの自己紹介じゃつまんないというわけで、「大切なことば」というお題でみんなに一言ずつ話してもらいました。じゃ、先生から!と言われて何と答えたかは後の話として、みんな一瞬、考える顔、考える姿勢になって、「ことば~?」「ことばか~...」ってささやきが聞こえてきます。

高校の先生に言われたことば、保育所のアルバイト先で言われる「ありがとう」、「ピンチはチャンス」とか、みんなとても肯定的なことばをあげていたのが印象的でした。それだけ挫けそうになることが多い世代なんでしょうか。それと、人間関係の網の目の中でがんばっていく知恵みたいなことに関心が向いている印象もありました。

え?ぼくのことばですか、そりゃ「自由」に決まってるじゃないですか。

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卒論発表会

2007-02-07 20:05:34 | today's seminar
今日は朝から学部の卒論発表会でした。今年は2人の指導しかしなかったのですが、例年並みのまずまずのものが提出され、指導教員としてはほっとしたというのが正直なところです。一人は日本語母語話者同士の会話におけるフィラー、もう一人は学習者同士の会話での参加管理、ということで、なぜか相手言語接触場面の研究がないめずらしい期となりました。とにかくご苦労様でした(マ、当たり前ではあるのですが)。

少し考えているのはもしかしたら学部の卒論はオーソドックスな母語場面の言語、コミュニケーション研究のほうが良いかもしれないということです。接触場面研究は応用的な面が強く、そのためには基礎的な学問理解が必要になります。言語管理理論にしてもこれはメタ理論のようなものなので、言語学等の基盤がないと、なかなか発展性のある研究は出来ないように思うのです。ですから、とりあえず学部段階では基礎的な研究能力を養ってもらって、大学院に進学したら、接触場面研究に入ってもらう、あるいは博士課程でも入るのは遅くないのかもしれません。

でもこれは危うい賭でしょうか...。
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授業は今日で終わりです

2007-02-02 23:16:34 | today's seminar
今日の大学院、学部のゼミで、今学期の授業はすべて終わりです。

今年は共同研究をグループごとにこちらでいくつかテーマを見繕っておいて選ばせてやっていましたが、まあ、最初の頃に比べれば、少しサマになってきたようですね。そんな中から、勉強としてではなく、自分のものとして問題関心を持ってくれる人が何人か出てくれればいいなあと思います。

若い彼らの一つの弱点は、言語の社会性について経験が足りない人が多く(あたりまえか)、自分の言葉使いの特徴を知らないことだと思います。日本語教育も、接触場面のインターアクションも、自分の言葉について深い理解がなければ始まらないことを、分かるようになって欲しいですね。
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知識としての文化の教育とプロセスとしての文化の教育

2007-01-24 11:27:45 | today's seminar
今日は学部の講義でした。言語能力から始めた後期の授業でしたが、社会言語学的能力、そしてやっとインターアクション能力のための社会文化能力の教育のところまで来ました。今日はそこでいわゆる日本事情に類似した知識としての文化教育について話しました。そして、その問題点として、これもよく言われるステレオタイプ、同化主義、などの限界を述べました。

日本語教育界ではこの議論はここで止まってしまい、知識としての文化教育を全否定して、教師も学習者から学ぼうとか、学習者に共生文化を再構築させようとかといった議論になってしまうように思います。しかし、文化知識は何を始めるにしても最低限の知識として必要になるでしょう。たとえ、インターアクション能力の教育のように、実際の場面とそこでのアクティビティを単位としてコースをデザインする場合でも、その場面やアクティビティに必要な社会文化知識はあるのです。ですから、こうした文化知識について教えるのをためらう必要はまったくないのだと思います。

ただし、そこで終わってしまうと文化教育の弊害はのこったままになります。そうではなく、今度はコース・カリキュラムの中心に実際使用場面を置いて本当のインターアクションを組み込んでおくのです。周知のように、接触場面においては、単に母語規範、母文化規範だけでインターアクションが行われるわけではなく、相互に規範を交渉することで接触規範が生まれるし、インターアクションに入ることでつねに規範も相互行為も、交渉の中に入っていきます。要するに接触場面にはステレオタイプはないのです。

ですから、授業において文化知識を教えると同時に、接触場面において文化のバリエーションを学び、交渉の可能性があることを学ぶことで、学習者自ら、教えられた文化知識を修正していく機会を持てることになるわけです。プロセスとしての文化の理解過程が始まります。

与えられた知識を実践によって修正したり、自分なりの知識に作り替えていく。これはしごく当たり前の、古くから行われているエスノメソッドなのだと思うのですが、いかがでしょうか。
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授業研究の担当分終了です

2007-01-22 22:25:23 | today's seminar
今年は吉野先生、佐藤先生にこれまでお願いしてきた学部の日本語授業研究という科目の一部を私も担当することになり、今日の4回目で担当終了です。「インターアクションのための日本語教育」「日本語授業観察」「日本語授業談話」そして「日本語教育と評価」の4つです。

今日の評価の話は、専門家でもないので、古川ちかし先生のNAFL通信講座「評価法」のテキストをつかわせてもらいました。このテキストは母語話者の日常、意識しないコミュニケーションに見られる評価というところから、日本語学習者のコミュニケーションの自己評価の限界を対照するという面白い切り口になっています。この1章は引用でも明らかなようにネウストプニー先生の影響が見られます。1988年当時、国語研にいらっしゃった古川先生(ぼくら国研研修生は「古川さん」と言っていましたが)はネウストプニー先生に近かったこと、今回、改めて確認したことになります。

第2章からは、古川さんでなければ書けない評価論(というか、日本語教育ではそれまでこうした議論をした人がいなかったというだけなのですが)になっていて、評価のテクニカルな問題を扱う前にぜひ必要な、評価の教育論が展開されます。評価がテストに限られないコースの開始から終了までの息の長い教育過程と同じ意味を持っていること、学習の問題、コミュニケーションの問題を分析し、解決策を考えるものとしての評価、さらに学習者にそうした問題を分析する自己評価能力を教育しなければならないとする主張、評価の基準は教師にも学習者にも明確でなければならない、など、どれも根本的なことばかりです。

ただし、すべての評価の基準がコースの学習目標となっている点、これは田中望・斉藤里見『日本語教育の理論と実践』で「目標に基づいた評価criterion-reference evaluation」として相対化され、もう一つのより学習者の人間的な視点を生かした「目標に制約を受けない評価goal-free evaluation」が提出されています。

最後は学生達と、評価されつづけてきたこれまでの教育機関の経験を話し合いました。彼らの胸にもどうやら古川さんの考察は届いたように思われました。
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研究論文が大詰め

2006-12-11 00:29:52 | today's seminar
学生さんは研究論文や学位論文で忙しくなっています。

先週の金曜日は、4人の学生さんの論文について見ていました。学部の4年生は卒論最終報告ということで、日本語母語話者のフィラー、非母語話者同士の参加管理の話を聞きました。それぞれ面白いテーマですが、まだ最終というところまでは進んでいないようです。でもこれからの1ヶ月できっとずいぶん変わるのだと思います。来週15日までにこれまで書いた部分を提出してもらうことになっています。コメントを書いて、最後の追い込みに入ります。研究生の二人も教室研究と日本人の挨拶行動ということで同じように追い込みに入っているところです。

オフィスアワーには博士課程の二人がきてくれて話をしました。聞き返しの研究では、なぜ聞き返しはわからないところをピンポイントで押さえるような表現にならないのかという点について(これは尾崎明人先生が、適切な表現を教えるべきだと年来主張している点です)少し思う事を述べました。つまり、あいまいな「え?」や「くりかえし」が多いのは、相手が話している会話の流れの中で、中断をすることについて交渉の余地があるかどうか、あるいは自分の問題に気づいてくれるかどうかについて、まずは聞き返しの予告として用いるからではないかということです。これは宮崎里司先生の云うflag(問題があることを暗示する)が談話上で意味することになるでしょう。もしそうだとすると、学習者であっても聞き手はべつに不適切な表現を選んでいるのではなく、じつに妥当な聞き返しをしているということになるわけです。

もう1つの非漢字圏外国人在住者の書き言葉使用場面研究では、しばらくリテラシー・プラクティスの枠組みに縛られていたのを再び言語管理の枠組みに戻す作業を少しずつやっています。日本語の書き言葉になれない外国人在住者には媒介したり仲介したりする人や、公的な相談所など、支援者や支援機関が不可欠な役割を果たしていますが、その人々の調整の用語を考えていました。適切な用語を作ったり見つけたりすることは、最も重要な論文の仕事の一つなのです。

さて、どこまで研究を追い込んでいけるか、あと一歩ですから、ぜひ勇気を持って進んでいってほしいものです。
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