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フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

private correction (management)

2007-06-26 23:57:04 | research
梅雨らしいすっきりしない一日。そう言えば、先週木曜日は夏至だったのですね。夏至の行事は何かあるのでしょうか。私は宮沢賢治のケンタウロス祭ぐらいしか知らないのですけど。古いイギリスではmidsummer nightの祭りがあったのかな?

今日はNeustupny (1985) の言語訂正理論の後半を読んで、何とか最後まで翻訳を終わりました。その中に、private correctionという節が出てきます。先日の研究会で石田さんが個人言語管理という言葉を使っていてよく分からなかったのですが、出所はここにあったようです。

private correction(のちにprivate management)とは、オーストラリア在住の日本人の多くが英語習得にも子供の日本語の維持にも弱い管理しか行わない傾向を示す点に注目する文脈で、ある言語の平均的な話し手が言語に対してどのような態度と方針(policy)を持っているかといったプライベートな訂正について考察する必要はないだろうかと述べたところに書かれています。

こうした言語に対する態度や方針というのは、伝統的には、言語意識と呼ばれるものだろうと思います。だから直接的にはディスコースにつながっては来ないけれども、傾向としては見えるということになります。

私が感じるのは、この節におけるprivate correctionはまだ言語意識の考え方から離れていないし、その限りにおいて言語訂正でも言語管理でもないということです。ちょうど他の節でネットワーク形成自体は訂正ではなく生成であるというのと同じことでしょう。

ですから、ここで考えるべきなのは、(a)ここでのprivate correctionには伝統的な言語意識の概念と異なる点があるのかどうか、(b)もしはっきりとした相違がないとしたら、言語意識と言語管理とはどのように関わるものと考えたらよいか、という2点だろうと思います。

たとえば、私の調査の例で言うと、ブルガリア出身者は言語ごとにネイティブの規範の習得をめざし、アルゼンチン出身者は母国でと同じような会話スタイルを可能にしようとしてネットワークを創造し、フィリピン出身者は3言語を場面ごとに選択しつつ、母国と同じように、コードミキシングを常態化させています。これらにはうまく言えないけれども、それぞれの人の言語バイオグラフィーに由来する、言語使用に対する態度、言語習得に対する方針のようなものが浮き出ている気がします。

こうした言語意識は、実際のインターアクションで規範からの逸脱を出発点とする言語管理の上のレベル、一般ストラテジーの一部を担っているかもしれません。それでは言語意識は、言語管理が少ない多言語社会ではどのように見られるか、言語管理が頻繁な主言語支配社会ではどのように見られるか、この点が気になるところです。
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第11回言語管理研究会の覚え書き

2007-06-24 23:06:14 | research
昨日は千葉大で言語管理研究会が開かれました。「多言語話者の言語管理」の3回目で、桜美林大、お茶の水大、千葉大の院生の皆さんが熱心に参加してくれました。

今回は、石田由美子さん、高民定さんに多くの問題提起をしていただき、まだ自分の中でまとめることが出来ないのですが、マレーシアのような多言語社会には多言語使用の言語管理がなく、日本のような主言語支配社会においてこそ多言語使用の管理が観察できるという点は面白い発見だったと思います。

まだまだ頭が整理されないので、今日のところはこのへんで。
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Typology of problems in contact situations

2007-06-11 23:34:15 | research
今日は驟雨と呼んで良いような激しい雨がお昼の小一時間ほど降りしきりました。いよいよ梅雨でしょうね。そう言えば今日は入梅です。

ある論文集に入れてもらうためにモナシュ・グループに翻訳してもらっていた「接触場面における問題の類型」(2006)の英語版"Typology of problems in contact situations"の修正をようやく終えて送りました。今回は、初めて自分で英語を書かず、日本語で書いた論文を英語に翻訳してもらいました。これはじつはとても興味深い経験をさせてもらったことが分かりました。

いつも英語の論文を読むときには、やはり日本語ほど自由ではないので、重要な部分は一字一句読んでいきます。そのためか、じつは日本語の論文を読むより、英語論文を読む方がずっと自分のためになるものです。そして論文の論理的な切れや明快さに驚いたりします。

今回、自分の日本語の英語版を読んでみると、じつは結構複雑なことを書いていたことがわかります。なんて、他人事のようですが、日本語で書いたときにはそんなに複雑な論理を作っていたとは思わず、わりと早いスピードで書いていた気がするのです。へたでも、英語で書くときは英語からじかに書いていくのですが、これだけの複雑なことは表現出来ないことを認めざるを得ません。

その、何というか、ギャップ(英語論文を読んでいる時と、今回の日本語を翻訳した英語版を読んでいるときのギャップのなさ!)が面白かったわけです。でも、これは単に私の英語が下手だったというだけではなく、もしかしたら、英語論文至上主義とか外国語の論文をありがたがる傾向の一因なのかもしれない、と思ったりします。
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HiromiMS先生来訪

2007-05-31 22:03:38 | research
先日の教育学会で発表をされたオーストラリアのHiromiMS先生が千葉大を訪ねて下さいました。オーストラリアでも言語管理をされている数少ない研究者の1人です。発表は膨大なデータのうち、日本人の側がオーストラリア人と話すときにどのように規範が揺れるかという、日本人の接触経験の乏しさを指摘した刺激的な発表でした。

この点は食事をしながら、私の中国人日本語話者と日本語母語話者の会話の場合に会話を維持し、発展させようと努力するのが中国人日本語話者のほうだという研究の場合と結局は同じことなのだという点で見事に一致しました。そしてこの日本人についての指摘はじつは20年前のマリオット先生の研究の成果と変わらない、つまり、20年経っても日本人の接触場面に対する不慣れはまったく変わっていないということなのだろうと二人で話していました。

そんなこともあって、接触場面研究、言語管理研究を理解してもらうためには、じつは根本的なところから説明を試みなければならないことが今回、よくわかったというHiromiMS先生の言葉が耳に残りました。

ひさしぶりに日本人の視点を抜け出している人(もちろん、他の社会の同化しているわけでもない)に会って幸せなひとときでした。
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日本語教育学会のパネルセッション

2007-05-28 15:10:39 | research
昨日の27日は桜美林大学で開催されていた日本語教育学会春季大会で、「多言語使用者の言語管理と日本語教育ー「多言語社会」から「多言語使用者の社会」へ」というタイトルでパネルセッションを行いました。各パネルの発表者とタイトルは以下の通りです。

高民定「多言語使用者のバラエティと言語管理」
村岡英裕「多言語使用者の会話参加」
石田由美子「多言語使用者と単言語使用者の言語管理」
S.K.ファン「日本社会における多言語使用者の言語意識:ジャパン・リテラシーを中心に」

80名ほどの参加者の中から、興味深い質問や、終了後もコメントなどが続いて、こうしたテーマについての関心の高さを感じました。こちらのねらいは、学習者について非母語話者の面よりも多言語使用者の面を見ることで、当事者の問題が見えてくるだろうということだったのですが、それがどこまで伝わったかはわかりません。ただ、「第2弾も期待しています」と言われたりすると、もう少し続けていくことで伝わる人を増やしていくべきなのかもしれないですね。(B型はすぐ飽きてしまうのがたまにきずなんですが...)
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多言語社会を目指すことの逆説

2007-05-19 23:01:03 | research
今日は来週の日本語教育学会春季大会ですることになっているパネルの準備で、パネリスト4人で集まりました。

「日本における多言語話者の言語管理と日本語教育ー「多言語社会」から「多言語使用者の社会」へー」というタイトルで、多言語を使用している当事者の視点からその言語管理を考えてみようという趣旨です。

準備では、日本に暮らす外国人を非母語話者と見たり、「外国人」と見たりすることが、多言語社会や多文化社会の実現を目指すことにつながっていくことの中に大きな誤解・逆説があることについて話が出ていました。

非母語話者とラベルづけることから、多くの人が、多言語サービスと日本語教育政策の拡大と母語保持・継承語保持とを唱え始めます。しかし、たとえば、多言語サービスをどれだけ充実させたら多言語社会は実現するんでしょうか。どのぐらいの言語を翻訳すればよいのでしょうか。

そして、もっと重要に思われるのは、言語が解決したとして、日本社会の日本人さえ不合理で窮屈だと思っているさまざまな慣行や制度を外国人は理解するようになるのでしょうか。

支援をすればするほど、外国人は「外国人」となり、一方、日本社会は相変わらずの日本社会のままでいることになるように思います。

ラベルづけをしないで、外国人が日本人一般ではなくて世界のふつうの人として生活しているということがわかれば、すぐに理解できるはずなんだけど、これがなかなか難しいんですね。
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杜の都の風

2007-05-12 23:11:20 | research
今日は朝の新幹線で仙台を訪れ、JALTのコロキアムで授業コーパス科研のメンバーによる研究発表に行ってきました。

天候もよく11時過ぎには仙台駅に到着。しかし、そこから会場になっている東北文化学院大学まで、ちょっとしたつむじ風の中に落ち込みました。まずは新幹線ホームから在来線のホームに行くのですが、そこで仙山線に行くのを間違って仙石線のホームに行ってまた戻り、やっと仙山線(仙台ー山形)に乗ったのですが、下車駅と思って降りたのが2つ手前の北山駅。メンバーが来るのを大学のある国見駅で待つということだったので、北山駅で何の問題も感じず、待ちながら、ノートブックを開いて発表準備をしていました。

北山というくらいなので近くにいくつもお寺があるらしく、お祭りなのか太鼓と囃子が聞こえてきます。風は心地よく春の香りがします。電車もしばらくは来ないので、祭りの音を聞きながら風に吹かれてホームのベンチに腰掛けておりました。ふっと時間が止まったようで、iPodではDon McLeanのVincentという画家ゴッホについての歌が静かに始まりました。その瞬間、私はつむじ風の真ん中で永遠を感じていたのかもしれません。

発表についてはまた改めて書くことにして、今日は杜の都仙台の風の感触を思い出しながら、寝ることにします。
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仙台パネル準備

2007-05-06 22:13:26 | research
授業科研のメモです。

ゴールデンウィークは12日の科研パネル発表の準備もしていました。それで戻ってきた今日は雨の中、パネリスト4人で集まって、わがマンションの19階のラウンジで勉強会をしました。東京湾でも眺めながらやりましょうと言ったのに、雨でな~んにも見えなかったのは残念。

4人ともあと1週間あるということで、何とかなると思っているところが、発表慣れというべきか発表ずれというべきか...

いやいや私はそんな余裕もなく苦しんでいます。いまだにコツのようなものがわからないので、むきになって最初からデータをさわったりするんです。

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教師発話の一人称化

2007-05-01 23:23:37 | research
今月12日に全国語学教育学会(JALT)の地区大会が仙台の東北文化学園大学を会場に行われますが、わが授業コーパス科研ではパネルセッションをつくって発表をします。たしか「教室における文脈とディスコース」とかそんなタイトルです。もしお近くの人がいましたらどうぞご参加下さい。

私は、K大の先生の授業を2年前にデータ収集させていただいたのですが、それについて発表しようと準備中です。このブログでも何度か触れているのですが、なかなか本質に届きません。今回は、教師として一般に持っている行動規範からその先生が意図的に逸脱をしていくことで、「読解授業」ではなく「読解」そのものを学習者に経験させていくところを、教師発話の一人称化という視点から話してみようかと思っています。

ふつう、日本語教師は自分のことばで自分の意見を述べることを避ける傾向が強くて、それが教師らしさの一部を作っているように思うのですが、そうした教師らしさは授業っぽさをつくる方法ともなっているのだと感じています。そのために読解という授業は出来ても(学生に音読させる、内容確認の質問をする、要約をさせる、感想を言い合う、等々)、実際に教室で読解プロセスを経験させることは至難の業になります。だって、授業っぽさは「本当ではない」ことでもあるわけですから。

その先生はそこをきれいすっぱり逸脱して、一人称でテクストの読解プロセスを再現していく道を進んでいきます。「わたし、これを読んでいて思ったイメージはね」といったふうに。そこに学生も、先生の中に読解のまねごとではなく、読解そのものを実現している姿をみつけることになるように感じます。そうなると、先生に促されて、一緒に自分の読解を始めます。共同で読解プロセスをたどっていく、そんなところが見えてきます。

一人称化とは、たんに「私」を使うだけではないのだと思います。学習者を前にして、先生を演じず、教える人間でありながら、立場(footing)を変えて「私」を示す時間を作り出していくわけです。これが名人芸でなくて何でしょう。
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多言語使用者パネルセッションの予稿集原稿完成!

2007-03-17 21:53:04 | research
今週はどうやってサバイブできるかと思っていましたが、何事も終わるときが来るようです。

月曜日は入学試験業務、木曜日は日帰り旅行、金曜日は研究会、という感じでしたが、その合間に5月のパネルセッションの予稿集原稿を書いて編集して学会に提出するという仕事をやっていました。他の3人の先生達からも原稿をもらい、自分自身も金曜の夜に書き直しを続けたりと修羅場でしたが、とにかく今日のお昼には速達で出すことが出来ました。「多言語使用者の言語管理と日本語教育ー「多言語社会」から「多言語使用者」の社会へ」というタイトルで4人でセッションを行います。

予稿集原稿が出来て、だいたいの発表の見通しは出来たので、これから調査を継続して肉付けをしていきます。

終わった後のご褒美で、家族3人でソフトクリームを食べました(笑)。
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