梅雨らしいすっきりしない一日。そう言えば、先週木曜日は夏至だったのですね。夏至の行事は何かあるのでしょうか。私は宮沢賢治のケンタウロス祭ぐらいしか知らないのですけど。古いイギリスではmidsummer nightの祭りがあったのかな?
今日はNeustupny (1985) の言語訂正理論の後半を読んで、何とか最後まで翻訳を終わりました。その中に、private correctionという節が出てきます。先日の研究会で石田さんが個人言語管理という言葉を使っていてよく分からなかったのですが、出所はここにあったようです。
private correction(のちにprivate management)とは、オーストラリア在住の日本人の多くが英語習得にも子供の日本語の維持にも弱い管理しか行わない傾向を示す点に注目する文脈で、ある言語の平均的な話し手が言語に対してどのような態度と方針(policy)を持っているかといったプライベートな訂正について考察する必要はないだろうかと述べたところに書かれています。
こうした言語に対する態度や方針というのは、伝統的には、言語意識と呼ばれるものだろうと思います。だから直接的にはディスコースにつながっては来ないけれども、傾向としては見えるということになります。
私が感じるのは、この節におけるprivate correctionはまだ言語意識の考え方から離れていないし、その限りにおいて言語訂正でも言語管理でもないということです。ちょうど他の節でネットワーク形成自体は訂正ではなく生成であるというのと同じことでしょう。
ですから、ここで考えるべきなのは、(a)ここでのprivate correctionには伝統的な言語意識の概念と異なる点があるのかどうか、(b)もしはっきりとした相違がないとしたら、言語意識と言語管理とはどのように関わるものと考えたらよいか、という2点だろうと思います。
たとえば、私の調査の例で言うと、ブルガリア出身者は言語ごとにネイティブの規範の習得をめざし、アルゼンチン出身者は母国でと同じような会話スタイルを可能にしようとしてネットワークを創造し、フィリピン出身者は3言語を場面ごとに選択しつつ、母国と同じように、コードミキシングを常態化させています。これらにはうまく言えないけれども、それぞれの人の言語バイオグラフィーに由来する、言語使用に対する態度、言語習得に対する方針のようなものが浮き出ている気がします。
こうした言語意識は、実際のインターアクションで規範からの逸脱を出発点とする言語管理の上のレベル、一般ストラテジーの一部を担っているかもしれません。それでは言語意識は、言語管理が少ない多言語社会ではどのように見られるか、言語管理が頻繁な主言語支配社会ではどのように見られるか、この点が気になるところです。
今日はNeustupny (1985) の言語訂正理論の後半を読んで、何とか最後まで翻訳を終わりました。その中に、private correctionという節が出てきます。先日の研究会で石田さんが個人言語管理という言葉を使っていてよく分からなかったのですが、出所はここにあったようです。
private correction(のちにprivate management)とは、オーストラリア在住の日本人の多くが英語習得にも子供の日本語の維持にも弱い管理しか行わない傾向を示す点に注目する文脈で、ある言語の平均的な話し手が言語に対してどのような態度と方針(policy)を持っているかといったプライベートな訂正について考察する必要はないだろうかと述べたところに書かれています。
こうした言語に対する態度や方針というのは、伝統的には、言語意識と呼ばれるものだろうと思います。だから直接的にはディスコースにつながっては来ないけれども、傾向としては見えるということになります。
私が感じるのは、この節におけるprivate correctionはまだ言語意識の考え方から離れていないし、その限りにおいて言語訂正でも言語管理でもないということです。ちょうど他の節でネットワーク形成自体は訂正ではなく生成であるというのと同じことでしょう。
ですから、ここで考えるべきなのは、(a)ここでのprivate correctionには伝統的な言語意識の概念と異なる点があるのかどうか、(b)もしはっきりとした相違がないとしたら、言語意識と言語管理とはどのように関わるものと考えたらよいか、という2点だろうと思います。
たとえば、私の調査の例で言うと、ブルガリア出身者は言語ごとにネイティブの規範の習得をめざし、アルゼンチン出身者は母国でと同じような会話スタイルを可能にしようとしてネットワークを創造し、フィリピン出身者は3言語を場面ごとに選択しつつ、母国と同じように、コードミキシングを常態化させています。これらにはうまく言えないけれども、それぞれの人の言語バイオグラフィーに由来する、言語使用に対する態度、言語習得に対する方針のようなものが浮き出ている気がします。
こうした言語意識は、実際のインターアクションで規範からの逸脱を出発点とする言語管理の上のレベル、一般ストラテジーの一部を担っているかもしれません。それでは言語意識は、言語管理が少ない多言語社会ではどのように見られるか、言語管理が頻繁な主言語支配社会ではどのように見られるか、この点が気になるところです。