フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

香港で自然を歩く(1)

2011-01-07 23:56:21 | Weblog
クリスマスの前後は香港に帰省。
この時期の香港は天気もいいし、乾燥しているので、一番過ごしやすい。それにヴィクトリア・ハーバーの両側のビルの多くがイルミネーションで飾られるから、それは見ごたえがある。

今回の香港では、いつものようにほとんど義理の両親のアパートの周辺でのんびりしていたが、知り合いや義理の妹に誘われて自然に親しむ機会があった。最初は香港の新界のほうにある湿地公園。北海道のウトナイ湖のようにラムサール条約に加盟しているかどうか知らないが、自然環境を保全するとともに野鳥観察が出来たり、博物館で動物が見れたりする。雰囲気やスペースの作り方はまるでオーストラリア風で、きっとオーストラリアをよく知る香港人が自然を重視した公園づくりをしたのだと思う。おかげで、ゆっくりとした気分で風の感触を楽しむことができた。

そこを教えて同行してくれたのは、義理の母の幼なじみのご主人と、その子供(娘さん)のご主人だ。ふたりは典型的な「太空人」で、家族はアメリカにいたり、イギリスにいたりして、いまはご主人二人だけ香港に残されている。しかも二人とも引退しているから時間はありあまっているわけだ。引退しているのだから家族のいる外国に移り住めばいいと思ったりするが、そう簡単にはいかないらしい。それで世界の株式を見つめたり、国際政治環境を観察したりして、うんちくを傾けている。

このあたりはもう深圳に近いところで、10年以上前だったら海岸沿いをバスで時間をかけてくるしかなかったのだが、今は山をくりぬいてトンネルを通したり、電車も通したので、公園までもとても気楽に来られるようになった。

写真は湿地帯の木製の道で結婚記念写真を撮っているどこかの二人たち。遠くのアパート群は香港の中では安いので大陸から移り住んできた人びとが集住しているという。いろいろ悲しい出来事が起こる非情城市だとのこと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月は輝いていた

2010-12-10 23:58:40 | Weblog
そろそろ今年も終わりなので、振り返ったりする。

毎年、新しい歌手を一人か二人発見して新しい気持になるものだけど、今年の白眉は新妻聖子さん。ミュージカルから始まった人だけどそのソプラノの繊細にコントロールされた声の気持ちよさはまさに絶品。帰国子女のお嬢さんというところがいいのかなあ。夏のメルボルンでは1ヶ月毎日何回も聞いて家族に閉口されてしまった。

もう一人、こちらは古くて、ぼくはふつう昔の歌手のCDを買わないのだけど、何の調子か「ふきのとう」の山木康世さんのCDを買ってしまう。昔から、山木さんは歌が下手なのだと思っていて、客観的に言うと確かにそう。しかし、それが味を出す場合もある。「峯上開花」と名付けられたCDの中にはいくつか素朴でいかにも80年前後の風景が思い浮かぶような曲があって、今年のお気に入りになりつつある。らららというあたりに行間の言わないことが込められているようで、ちょっとぐっとくる。山木さんは詩人ですね。

ただ一面氷の真冬の湖に 青白い光の月が 輝いていた
眠りについた町 思い出の眠る町 二人は若かった 身体も心も
ららら・・・あの日の夜空にも 月は輝いていた



今週は大学院満期修了で教職についていた大場さんの博論審査があった。接触場面と内的場面の三者会話の参加の役割について論じたもの。発話の方向や、情報保持者と非保持者など、徹底してエティックなカテゴリーで三者会話の発話を追った詳細な記述は、生半可なプロセス調査にはない迫力がある。なぜ徹底してエティックだったのか、それは本人に聞いてもわからないかもしれないけれど、これで出発地点に立てたとしたら、今度は肩の力を抜いて、言語管理やプロセスに自在に踏み込んで行けるかもしれないと思ったりする。広島からわざわざご苦労様でした。苦労が報われましたね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小春日和、渋谷

2010-11-28 23:58:59 | Weblog
11月もそろそろ終わりだが、ここ数日小春日和が続いている。

ブログを書こうとしながらなかなかまとまらないことが多くて、書けずじまい。その間に、『日本語学 臨時増刊号 言語接触の世界』が発行された。大阪大の渋谷先生が監修したもので、日本語史上の言語接触から言語権まで、その幅広さはまさに渋谷先生の博識そのもの。ぼくも1章を書いているので、ご興味のおありの方はどうぞ手に取ってみて下さい。

土曜日は渋谷の國學院大學を会場として行われた言語政策学会地区大会に足を向ける。道玄坂とは反対側の渋谷は坂が多くて、一歩、広い道から外れるとごくふつうの住宅街になるところが面白い。理事会で来年の大会のテーマの話があったが、シンポジウムのほうはかなりこれから揉まないと苦しそう。まだあまり言えないのでこの話題はまたいずれ。

会場のロビーで某出版会社の人とこれまた来年の鬼が笑う話をする。こちらは鬼に笑われないように急いで仕事をする必要があり。某出版の人はじつは田中望先生のところで大学院を出た人だそうで、久しぶりに田中先生の近況を伺った。いよいよ沖縄移住の夢の実現間近ということらしい。

そういえば、金曜日には早稲田の宮崎先生と会議をして、来年の言語管理シンポジウムの計画を考えていた。オーストラリアのマリオット先生やチェコのネクバピル先生などをお呼びして、2年ぶりの国際シンポジウムをやろうというもの。じつはいろいろ経緯があったのだが、なんとかまとまりそう。こちらも鬼に笑われないように進める必要有り。

というわけでだんだん年も押し迫ると、来年のための仕込みがいろいろある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Michael Clyne教授亡くなる

2010-11-02 16:34:22 | Weblog
オーストラリアのモナシュ大学名誉教授Clyne先生が先月29日に亡くなられたと知らせをもらった。

Clyne教授は言語接触論、多文化主義について多くの著作を書き、オーストラリアの多文化主義政策にも貢献してきたモナシュ大学の言語学の巨星だった。分厚い眼鏡のレンズの奥でいつも目がいたずらっ子のように輝いていた気がする。ぼくはネウストプニー教授を通じてClyne先生を知っているだけだが、論文などは大学院の授業でときどき使わせてもらっていた。Community Languagesに関する本の末尾には、多言語主義がオーストラリアの豊かな言語資源を意味していると高らかに宣言していて、将来はきっと他の国々にもオーストラリアのモデルは広がっていくだろうと書かれている。

モナシュ大学のサイトでは、Clyne教授が亡くなる前日まで講演会に出席していたことが伝えられているし、お悔やみを述べている人もその週の月曜日に会ったばかりだったと述べている。

Clyne教授の冥福をお祈りします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月末日録

2010-10-30 23:55:58 | Weblog
昨日の学部ゼミではフォローアップ・インタビューの実習をする。

昔同じようなことをしたときにはほぼすべて学生たちが自分でビデオや質問を用意したものだが、今回はお膳立ては全部こちらがやって質問を考えるのも手伝ったりしている。インタビューにもぼくも少し参加してみる。だんだん聞かれるタイ人の留学生も、質問する学生も真剣になってくる様子が少しだけ面白い。インタビューはデータを取るというより、その人の本当の気持ちに触れて共鳴するところに醍醐味があるとぼくは思っているけど、学生たちはどう感じただろう。おしゃべりはそつがないけど、深く入り込めない、なんて言われる世代なのだ。

今日は台風が近づいて1日中雨。午前中は娘の中学が全校生徒参加で行う合唱発表会。この学校はふつうの学校なのに合唱発表会は体育館でなくて、県立文化会館の大ホールを1日借りて開催する。今時はこれが普通なのかな。文化会館は県立中央図書館の後ろにあって、図書館のいかにも古いというか崩れそうな60年代から70年代の疲れたコンクリートが雨に濡れているのを脇に見ながら階段を上っていく。

娘のピアノ伴奏が終わるのを待って退場。大学で入学試験の面接。例年よりも志願者が少なくて助かる。雨脚が繁くなってきた中を、黄色く色づいた落ち葉がぬれて舗道に張り付いているをみながら、早々に家にもどる。

朝鮮族調査を少し考えてみるが、データを集めれば集めるほど言語運用の不思議、ではなくて、当たり前なところが見えてくる。3言語を使用する彼らには何も変わったところはないという感じだ。言語運用に不思議はない。しかし、接触場面が日常化している人びとに共通する、言語選択や言語習慣についての意識があって、それに則って言語運用を管理しているように思われる。そこが今のところ注目したいところか。

ようやく秋が深まりつつあるが、もう11月である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

29年経っての感慨

2010-10-14 23:43:41 | Weblog
今日は大学の会議である報告を聞いて、感慨をもった。

というのも、ぼくの職場先でもようやくInternational Support Deskという名の、大学全体の留学生を対象とした支援組織が出来たというのを聞いたからだ。私立大ではとっくにやっていることだけれど、国立大は学部ごとの「縦割り」があって、留学生は所属する学部や学科の事務が対応することが多い。だから学部や学科で対応がバラバラだし、留学生の質問に対する応答もまちまちになってしまっている。もし会う人ごとに応答が違ったら留学生はどうしたらいいだろう?

29年前にアメリカの大学に行ったとき、まずその学期開始のときに、大学のInternational Centerがほやほやの留学生たちを集めてガイダンスを行い、必要なパンフレットを配布してくれた。そして何でもいいから質問や困ったことがあったらCenterを訪ねてほしいと言われ、とても心強く感じたものだ。しかし、日本に戻ってみると、そんな組織は何もなかった。

そんな経験があるから、留学生サポートの一元化は当たり前のことだと思っていたのだけど、日本の国立大学ではむりなのかなと思っていたわけだ。それがなぜ出来るようになったのか経緯はしらないけれど、ようやく実現するという。

願わくばちゃんと魂を入れるのを忘れないように。

じつは組織はいくらでも出来るわけで、大切なのはサポートにまわる人間なのだ。アメリカのCenterだって、留学生の話を真剣に聞いてくれる人とそうでもない人の違いはあって、英語のわからない留学生にもその違いははっきりわかるものだったから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別荘にあそぶ

2010-08-26 21:54:29 | Weblog
3週間余りのメルボルンはあっという間に終わってしまう。

例年よりずっと冬がつづいて、雨も多かった気がする。さくらやこぶしがようやく咲き始めているが、ここ2,3日はまた寒さがぶりかえしている。

メルボルンでふつうに生活をしたり、スーパーで買い物をしたりしていると、いわゆるイギリス系のオーストラリア人が多民族・多言語に寛容であることに感心する。こんなにたくさん、アジア系移民がきて、わからない言葉で勝手に話しているというのに、少しもいやな顔をせず、静かにつきあおうとしている。それはオーストラリアでもとびきり多文化がすすんだメルボルンだけの話かもしれないが、ぼくにはなかなか自然に振る舞えるとは思えない。

ほとんどアパートにいてコンピュータの前に座っていたが、とりあえず接触場面のコミュニケーションに関する論文の第1稿を書き上げ、それから長くなってしまった教室のfootingの論文の執筆がようやくはじまったところ。それぞれほんのすこしだけ思考がすすんだかもしれない。このへんのことはまたあらためて書くことにしたい。

先週末は最後の週末ということで、連れ合いの香港移民の友人がたてた別荘におじゃま。80年代半ばからメルボルン大に留学して哲学で博士をとって、数年、香港にもどっていたが、92年から移民になってこちらで暮らしている。だからもう18年になるのだと思う。移民としてながく暮らすのであれば、自然の中の別荘を購入して生活をたのしむのはごくしぜんなことだろうと思う。薪にするために木の根っこをオノで切ったり、それをストーブで燃やしたりしながら、みんなでオーストラリア総選挙の開票を見ていた。そして翌日は近くの川で釣りに挑戦。みんなでやってようやくうなぎが一匹つれたのはご愛敬だ。うなぎはなかなか死なないし、あごが強くてへたにさわると怪我をするというので、結局、冷凍庫で凍死させてしまった!

写真は帰り道で、道に迷って、相談に入った田舎の雑貨屋。いかにも古典的な風情がよろしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Cityの小路

2010-08-23 17:15:57 | Weblog
先週金曜日は久しぶりにCityに出向く。英語学校に通う娘が放課後、ドイツ人のクラスメートとCityに遊びに行くというので、夕方、落ち合うことにしたのだ。

じつはメルボルンにいた頃から、その中心部を流れるヤラ川の西側のCityはほとんど歩いていない。ESLの本をそろえた本屋ぐらいしか用を思いつかなかったのだ。川の東側は植物園があったのでよく散歩したのだけど。

フリンダース駅はメルボルンの近郊電車のすべての始発駅だが、そこからヤラ川までの場所が再開発されている。茶色の岩を模したような外見の建物には、昔、アフリカ映画祭などを見に行ったState Film Theatreが、映画の歴史を見て楽しめる博物館に拡大して入っていたりする。ここ1週間ばかりはインドネシア映画祭をしているようで、この州営の映画研究所の精神はいまも健在。同じ建物の上の階には多民族放送局SBSがある。

メルボルンの天気はめまぐるしく変化することで有名だが、このときも突然、驟雨のような雨が落ちた。そしてすぐに青空が拡がり夕日が輝くというわけだ。

どこにいく当てもなかったので、メインの通りを少しだけ歩くが、意外に人であふれかえっている。横の道にそれ、建物の中にのびたアーケードからビルとビルの間のさっきの雨に濡れた小路に入った。

こんなところがあるとは知らなかったが、そこは最初はイタリアかスペインの小路っぽく、レストランのテーブルが置かれていたり、イタリアの封筒や立派な家族記録の台紙の売っている店があったりするが、道を隔ててつづく小路は微妙にアジア化して、暗くなると香港かどこかの小路の雰囲気だ。店は小路と一体化していてどちらからも自由に入ったり出たりできる。

とある店に入って、小路に向いてすわるカウンターに席をとった。窓というか、ただ矩形にあいた穴だけど、その向こう側にも店のテーブルがおいてあって客がすわっている。最近の流行でテーブルと窓のあいだにガス・ストーブがいかめしい煙突か行灯のようにおいてあって、暖かいのはいいが、これはエコじゃない。

となりにすわった人は大学院生風の青年で、一人で手書きの手帳をみて少し書き物をしたり、iPhoneで調べ物をしたりしていたが、簡単な食事をとって出て行った。その青年と横にかかっていた写真の人物がよく似ていておかしかったが、写真の人物がだれかは思い出せなかった。

翌日が選挙ということもあって、ここ1週間テレビや新聞は接戦の選挙の番組ばかりだったが、カウンターに座りながら前首相のRudd一家の話を思い出した。かれはオーストラリアの外交官として北京に長かった人だが、その娘は香港人の男性と結婚して、小説家になったという。元首相にはお兄さんがいて、お兄さんはベトナム戦争に従軍したのがきっかけでベトナム人の奥さんと結婚している。そのふたりの間に生まれた青年はチリから移民してきた女性と結婚していて、オーストラリアのPeople's revolutionary partyから民族差別反対をとなえて今回、立候補していたと言う。Rudd一族はまさにオーストラリアの片方の代表みたいな人々だったのだ。

しばらく向かいのレストランを眺めながら(向かいも窓も壁もなく、キッチンも食事のところも丸見えなのだ)、なんだか映画か芝居を見ている気がした。

紅茶を飲み終わって席を立ち、店のレジのほうをふりむいたとき、赤い木の壁に流れるようにLorkaと書いてあるのをみて、突然、写真の人物と結びついた。ガルシア・ロルカだったんだ。

こんなアジア風の袋小路みたいなところで出遭うとは思わなかった。ロルカはスペインの暗殺された詩人だけど、スペイン語がわからないぼくには彼の詩はさっぱりわからなかった。山口昌男さんが何本も論文を書いていたっけ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Springvale再訪

2010-08-16 09:03:27 | Weblog
Springvaleは、メルボルンの東の郊外にあって、昔からベトナム人の移民の町として知られている。アジアからの移民としては古株になる。

当時住んでいたときも、家から車で20分もかからないところだったのでときどき買い物にいったものだ。そこで久しぶりにベトナム料理を食べようと思って出かけることにした。メインの通りの両側は基本的に昔のままだ。漢字の看板も多いが、同様にあのヒゲのような音調を示すしるしのついたベトナム語の看板も少なくない。果物店、食肉店、魚屋、八百屋など小さな店が軒を並べている。メルボルンで一番上手にフランスパンを焼くベトナム人のパン屋もある。

裏のほうに車を駐車して、冷たい雨の中、ベトナム料理のレストランをさがす。多くの店は、蛍光灯を使っていて少し肌寒い感じがするのだが、1軒、暖かな電球色の光を使っているところがあったので、そこに入ることにした。ガラスのドアにはベトナム料理、カンボジア料理とある。店は細長くて、左がtake away用のカウンター、右は4人掛けのテーブルが奥まで並んでいる。前のほうで3人くらい、若者たちが注文の途中。そのあとにインテリ風の青年が一人。奥のテーブルに赤ん坊と若い母親、その母親の母親がいて、きっと常連なんだろう、賑やかに店の人と話ながら食事をしていた。

奥の方、赤ん坊のいるテーブルの隣に座って、料理の注文。メニューには写真がほとんど載っていないので、英語の名前をたどるけど、麺の種類や、ご飯もののパターンはマレーシアやシンガポールや香港とも共通している部分があるので何とかなる。アボカドジュースが有名だと聞いたのでそれを注文。これはアボカドにアイスクリームを少しまぜてシェイクのようにした感じで、なかなかいける。あとは卵麺とライス麺、それに娘は牛肉の揚げ物をのせたご飯の皿を頼む。

後ろのテレビではカラオケ番組の録画ビデオが流れている。バンドをバックに歌手が歌い、スタジオに集まった人々がダンスをしているもの。一見、アメリカのダンス・パーティー風だけど、仕草がおだやか過ぎるし、指がつい反って手首をひねるようにうごいてしまう。ヒゲの文字がスーパーで出ている。日本ならさしずめ演歌とダンスということになるだろう。

店のひとはみなやさしい。やさしい言い方とものごしで、しかも自然に近くにきてくれるような感じなのだ。

30歳ぐらいの店の男性がテーブルにきて、どこから来たのか、旅行者か、どのくらいメルボルンにいるのかとか聞いてくれる。日本と言うと、去年、新婚旅行で行きましたよ、寒かったよと答えてくれる。

もう一人の女性もやってきて話が続く。女性はカンボジアから移民したと言って、ここの料理はカンボジア料理が多いという。この店を新しく買ってレストランを開いたのだとも話してくれた。

雨が止んでいた。外に出て、窓に張られている手書きの紙の読めない文字を指していると、カンボジアの女性がガラス越しに発音を教えるように口を動かして笑っていた。

ベトナム料理を食べに行ってカンボジア料理を食べてきた。正直言って、注文したものはとくにカンボジア料理という感じでもなかった。しかし、お金を払い料理を食べる、ということ以上のことがあるから、ぼくらはレストランに行くわけだ。ウェイターにもウェイトレスにも移民の事情について聞くことは出来ないが、その夜実際にぼくらはよい食事をしたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またもやメルボルン

2010-08-10 20:36:45 | Weblog
メルボルンに来て1週間経ち、ようやく生活が落ち着いてきた。冬の雨が数日続き、週末は快晴の空が広がったが、また雨雲が戻ってきた。この雨が少なくなれば冬の終わりとなる。

2年ぶりのメルボルンはとにかくアジア系住民の数が格段に多くなった印象。中国系はもちろんだが、韓国系も少なくない。ぼくもその中の一人として見られながらここにいる。

日本を発つ前に遅れていた査読を終わらせる。こちらに来て、提出直前の博論のコメントも何とか終了。成田で買った『考える人』(新潮社の季刊雑誌)で村上春樹インタビューを読む。これは3日間にわたるものでこちらも読了に3日かかった。

そして本当に久しぶりにシェークスピアのハムレット(岩波文庫、野島秀勝訳)を読み終わった。NHK教育でイギリスの現代風ハムレットの劇がやたら面白かったので再読し始めたのだけど、やはり魅了される。それでも、魅了されるのは王に命令されてイギリスに向かうところまでだ。命からがら戻ってきたハムレットはすでに決断して人が変わっていて、あとは筋書き通り運命の破局へと突き進むだけだからだろう。それまでの、ハムレットのあらゆる言葉がだれにどのように解釈されるかもわからない中で絞り出される、その冷たさはじつに恐ろしく、際立っている。彼は多義性の中で生き延びているが、やがて一義的な言葉をもって破局を選ぶことになる。

でも批評はやめよう。野島氏の訳注や解題を読んだだけでハムレット学がどんなに高く積もり、広がっているかよくわかるから、素人には魅了されたとしか言えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする