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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

田中耕太郎、新渡戸稲造を語る

2023-05-26 01:26:13 | コラムと名言

◎田中耕太郎、新渡戸稲造を語る

 昨年の10月から11月にかけて、田中耕太郎の文章をいくつか紹介した。
 田中耕太郎には、エッセイ風の文章もあるが、これがなかなか良い。以前、読んで面白いと思ったのは、「新渡戸先生と倫敦の思ひ出」というエッセイだった。新渡戸先生とは、国際連盟事務局次長などを務めた新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862~1933)のことである。
 本日以降、このエッセイを紹介してゆきたい。かなり長いので、ところどころ割愛しながら紹介してゆくことになろう。
田中耕太郎著『教育と権威』(岩波書店、1946)に収録されているものを引用する。初出は、1939年(昭和14)中に発行された『文藝春秋』と思われるが、巻号は確認していない。
 
  新渡戸先生と倫敦の思ひ出

 私が一高に在学してゐたのは明治四十一〔1908〕年から同四十四年〔1911〕までであつた。その期間は新渡戸先生が一高校長として最も油が乗つてゐられ、一高に全力を傾倒せられてゐた時である。私が内務省から大学に帰つて来て助教授を拝命した大正六年〔1917〕頃にはまだ経済学部が独立してゐなかつた法科大学時代で、先生が教授会で当時の中堅教授の間の舌端〈ゼッタン〉火を吐くやうな激論を、例の、先生の写真によく見受けられるやうに、右の指先で以て軽く下顎を支へたやうなポーズ――このポーズは先生の表面だけの模倣者流がやるときにはきざで堪らないものであるが、先生に於てはそれが極めて自然に見えた――をしながら、総てよしよしと是認するやうな態度で論争の外に超然と静に瞑目してゐられた様子が今日尚ほ眼底に彷彿としてゐる。
 斯様な事情に拘らず私は先生に個人的に接近する機会に恵まれてゐなかつたし、又先生のやうな偉い人物に自分から進んで接近するだけの資格が欠けてゐるやうに思へたので、遠方から遥に敬慕してゐたやうまわけであつた。所が偶然一つの機会が到来した。私は私よりも遥に先生に接近してゐた人々が持ち得なかつた特権と幸福とをもつことが出来た。
 私が留学生として海外に派遣せられたのは今から二十年前、世界大戦巴里〈パリ〉講和会議の直後、大正九年〔ママ〕(一九一九年)のことであつた。全く一介の赤毛布〈アカゲット〉として倫敦〈ロンドン〉と云ふ大都会に到着して見ると講和会議の余波を受けて宿と云ふ宿は全部満員である。私は当惑し心細い限りであつた。其処で思ひ出したのが新渡戸先生が国際連盟の事務次長として当時倫敦にゐられると云ふことである。(連盟事務局が一時倫敦にあつたことは読者も御承知のことと思ふ。)私は先生は世間が広いから適当な英国人の家庭でも世話していたゞけるかと思つて、ケンシングパークの西北方ホツランドパーク六十六番のパンシオン〔pension〕にゐられた先生の所に「窮鳥懐に入れば」と云ふ具合にころげ込んで行つた。
 勿論私が先生の所に居据らう〈イスワロウ〉なんと云ふ厚かましい意図を持つてゐなかつたことだけは慥か〈タシカ〉である。所で、先生は猟夫であつたのみならず、非常に親切な猟夫であつた。先生は三室占領してゐられたが、勿論私を置くやうな余裕はなかつたのに拘らず、シッチング・ルーム〔居間〕のソーファの上に当分寝るやうにと云つてくれられた。私は先生の許で、小鳥のやうに何の心配や不安もなく、三四週間だつたか、もつと長く二三ケ月だつたか忘れてしまつたが、相当の期間先生のソーファの上で起居した。この生活はその年の暮近くになつて先生の夫人が先生の秘書原田健君と前後して、北米経由で到着されたので終了を告げ、私の方でも丁度チェルシーに或る適当な英国人の家庭が見つかつたので、そこに移ることになつた。私はその後は以前と違つて先生を独占することが出来なくなつた。それ故甚だ相済まぬことだが正直の所あんなに人のよい立派な新渡戸夫人をうらんだのであつた。〈132~134ページ〉【中略をはさんで、次回】

 文中、「大正九年(一九一九年)」とあるのは、原文のまま。ここは、「大正十年(一九一九年)」と訂正されなくてはならない。

*このブログの人気記事 2023・5・26(10位に極めて珍しいものが入っています)

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ジャニー喜多川問題と資料集『男色の民俗学』

2023-05-25 03:47:59 | コラムと名言

◎ジャニー喜多川問題と資料集『男色の民俗学』

 最近になって、ジャニー喜多川問題についての報道が増えてきた。この問題に関連した話題をひとつ。
 今から二十年前に私は、『男色の民俗学』(批評社、2003年12月10日)という資料集を編んだことがある。その資料集について、2007年2月12日付で、アマゾンに、次のようなレビューが載った。

上位レビュー、対象国:日本
あっは
★☆☆☆☆ 収集対象が偏っているのでは?
2007年2月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
帯には「男色を容認して北日本の風土、文化と日本人の真相に迫る」とありますが、集められた明治以降の論文の半数以上には同性愛に対する差別的な意識が見えて、そんな視点から観察された「風俗」なるものはひどく偏ったものと言わざるを得ません。視点が視点だけに事実の観察すらバランスを欠いている恐れがある(目立つ醜聞を中心に記録したと見える論文(?)がある)と思われます。河岡潮風の感情的な一文などは個人的な趣味に基づく悪口雑言の類であって掲載に値しないと考えます。これだけのものをよく集めたとは思わなくもないですが、批判的に読むならまだしも、「民俗学」と題するとしたら誤解を招く本とすべきでしょう。

35人のお客様がこれが役に立ったと考えています

「あっは」さんに拙編著を読んでいただき、アマゾンにレビューを投稿していただいたことには感謝したが、「収集対象が偏っている」と評されたのは遺憾だった。特に、集められた文献に、「同性愛に対する差別的な意識」が見える、と評された点は、たいへん残念だった。「あっは」さんは、この本の編著者に対しても、「同性愛に対する差別的な意識」が見えると感じられたのに違いない。
 そういう御感想からして、星ひとつ(★☆☆☆☆)というのはありうると思ったが、この批判的レビューに対し、「役に立った」というボタンを押される方が多いことに驚いた。「役に立った」というボタンを押された方は、現在では35人に及んでいる。ちなみに、この資料集に対するレビューは、未だに「あっは」さんの一件のみである。
 今回のジャニー喜多川問題でハッキリしてきたのは、同性愛とペドファイル(小児性愛、小児姦)とを分けて考えなければならないという動向である。前者は肯定され、後者は否定される(犯罪として処罰される)。こうした発想は、近年の西欧において生じたものであって、必ずしも、西欧の伝統的な発想というわけではない(西欧の伝統的傾向は、同性愛とペドファイルの双方を否定し、双方を犯罪として処罰するというものだった)。
 同性愛とペドファイルを分けて考えるという発想は、もちろん、日本の伝統にはなかった。日本の伝統的な「男色」文化は、同性愛とペドファイルとが、混然一体となったものである。いや、日本の伝統的な「男色」文化は、基本的にペドファイルの文化だった、と言っても過言ではない。これを「少年愛」などと言い換えても、実体は変わらない。近代化(西欧化)を急いだ明治国家は、「男色」文化(小児姦を中心とした同性愛文化)を禁圧しようとした。これは、西欧諸国の眼を意識したこともあったのだろうが、当局が、それ以上に問題視したのは、軍隊や学校の内部で、男色(ペドファイル)による「弊害」が生じていた事実ではなかったのか。
『男色の民俗学』には、明治国家による、そうした禁圧政策を反映している論考が含まれている。河岡潮風の「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風を痛罵す」(1909)などは、そのひとつとして位置づけられる。しかし、明治末期の日本において、ペドファイルが横行している事実を告発することは、やはり、相当の勇気が必要だったのではないか。この論考に対して、「個人的な趣味に基づく悪口雑言の類であって掲載に値しない」(「あっは」さん)という判定を下すことに、私は賛成できない。
 日本では、もともと、同性愛とペドファイルを分けて考えるなどという発想はなかった。前者を肯定する人は、後者も黙認(容認)してきたのである。あるいは、後者の容認者が前者の肯定者でもあった、というべきか。ジャニー喜多川問題は、1988年(昭和63)の告発によって、半ば公然たる事実になっていたが、それでも、マスコミ等は、これを問題にしてこなかった。その背景には、ペドファイルを容認してきた日本の「男色」文化の存在があった、と私は理解している。
 今日、マスコミは、ジャニー喜多川問題について、ようやく批判的な論評をおこなうようになった。「あっは」さんには、十六年も前のレビューを引き合いに出して、申し訳なかったが、「あっは」さんが、今日なお、レビューの趣旨を維持されていらっしゃるのかどうか、お聞きしたいという気持ちが私にはある。
 また、「あっは」さんのレビューに対し、「役に立った」というボタンを押された方々の中には、資料集の現物を手にされていない方もあると思う。資料集収録の各論考、および礫川の「解説」を冷静に検討された上で、各自の立場から、レビューを投稿していただきたいと願うものである。

*このブログの人気記事 2023・5・25

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赤報隊事件に権力の狡知を見る

2023-05-24 04:18:32 | コラムと名言

◎赤報隊事件に権力の狡知を見る

 拙著『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」の一部を紹介している。本日は、その四回目(最後)。同章の第七節を紹介する。

◎狡兎死して走狗烹らる
 長谷川論文が紹介している事実経過を見ると、東山道鎮撫総督府は、慶応四年(一八六八)一月下旬のある時点から、赤報隊の解体・抹殺を画策し始めたようだ。赤報隊の主力が「博徒」だったという認識に立ってこれを解釈すると、東山道鎮撫総督府は、一度は博徒の武力を利用したものの、ある段階から、博徒(無頼賊徒)の武力とその影響力を危惧しはじめ、かつ博徒の武力を利用したという事実を抹殺しようと考えはじめたということが言えるかもしれない。
 相楽隊は、慶応四年(一八六八)二月一八日、追分(信濃追分)で東山道軍の攻撃を受ける。官軍が賊軍(偽官軍)になった瞬間であった。以下は、依田憙家「明治元年赤報隊の展開」からの引用である。

 二月一八日未明、小諸藩兵百名と御影陣屋の農兵二〇〇名とは追分の赤報隊を急襲した。御影陣屋の兵は名は農兵であるが、実際には日ごろ陣屋で使っていた目明しや博徒であったという。この戦で赤報隊の主力〔桜井隊〕は壊滅的な打撃を受け、金原忠蔵は討死し、桜井〔常五郎〕も一時逃れたが、一九日にいたって発地村で御影陣屋の公事方の手で捕縛された。
 二月二三日に下諏訪に帰った相楽総三は、ここで佐久郡における赤報隊主力の壊滅を知った。このころ相楽の下にはなお一二五名の隊員があったが、佐久における事件を聞いて逃亡者が相つぎ、五七名に減ったという。二八日には薩藩と大垣藩の兵が到着したので、相楽は陳情書を提出している。〔中略〕
 これらの文書によると、相楽はこの段に至るもなお自らを「官軍」と信じて疑わなかったようである。とくに第一・第二の文書においては、この事件は「不勤王藩」たる小諸藩らの陰謀であると訴えている。しかし、第三の文書においては、さすがにこの事件は総督府の処置とも関係があるかも知れない、少なくも何か関係がありそうだと気づいたようであり、「仮令果テ令之出候トモ、一応之応接モ有之候テモ可然、然ルニ殊ニ討取候様ニト申令ニモ無之、…」と、「たとえ出たとしても」とその可能性をみとめ、それにしても一言の問い合せもなく不意討ちをしかけるのは、官軍に敵意のある証拠だとしているのである。

 小諸藩兵・「御影陣屋の兵」の攻撃によって、主力を失いながら、なお、みずからを「官軍」と信じ、陳情書を送る(宛名は、「本営執事中」)。「狡兎死して走狗烹らる」というが、相楽隊の悲劇を、これほど的確に表現した言葉は、ほかにないだろう。
 しかし、私がそれ以上に悲劇だと感じたことがある。それは、相楽軍を攻撃した「御影陣屋の兵」の実態が、「目明しや博徒」であったことである。新政府側は、赤報隊を「無頼の徒」、「無頼の党」と呼んで貶めていた。長谷川昇の研究によれば、赤報隊には、事実多くの「無頼の徒」が参入していた。その赤報隊(相楽隊)に対する攻撃を「目明しや博徒」に命ずるとは。このとき、「御影陣屋の兵」が襲撃したのは、依田論文によれば、農民を中心とした桜井隊だったようだが、その場合であっても、草莽に草莽をぶつけるという図式に変わりはない。「夷を以て夷を制す」。何という権力の狡知であろうか。

 以上で、『攘夷と憂国』第六章の紹介を終える。なお、同章の参考文献として挙げておいたのは、次の十一冊。

・太政官『復古記』内外書籍、1928~1931
・信濃教育会諏訪部会『相楽総三関係資料集』信濃教育会、1939(青史社、1975)
・長谷川伸『相楽総三とその同志』新小説社、1943(中公文庫、1981)
・諏訪教育会(今井広亀執筆)『諏訪の歴史』諏訪教育会発行、1955
・高木俊輔『維新史の再発掘』NHKブックス、1970
・依田憙家『日本近代国家の成立と革命情勢』八木書店、1971
・高木俊輔『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974
・長谷川昇『博徒と自由民権』中公新書、1977(平凡社ライブラリー、1995)
・長谷川昇「黒駒勝蔵の『赤報隊』参加について―水野弥太郎冤罪・獄死事件」『東海近代史研究』第四号、1982
・佐々木克「赤報隊の結成と年貢半減令」『人文学報』〔京都大学人文科学研究所〕第73号、1994
・『詳説日本史』山川出版社、2002年検定済

*このブログの人気記事 2023・5・24(9・10位の伊藤克は久しぶり)

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長谷川昇、赤報隊と博徒との関わりを指摘

2023-05-23 02:55:37 | コラムと名言


◎長谷川昇、赤報隊と博徒との関わりを指摘

 拙著『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」の一部を紹介している。本日は、その三回目。同章の第六節を紹介する。

◎赤報隊と博徒
 高木俊輔氏は、『維新史の再発掘』(一九七〇)の「あとがき」で、草莽たちとのかかわりで見逃すことのできない博徒やヤクザについては、「筆が及ばなかった」と述べている。
 それから七年後の一九七七年、長谷川昇(一九二二~二〇〇二)は、『博徒と自由民権』(中公新書)という本を世に問うた。これは、出たとたんに古典となったと評されてもよいほどの名著である(現在は、平凡社ライブラリー)。
 同書は、自由民権運動の激化事件のひとつである「名古屋事件⒀」(一八八四年発覚)についての研究書であるが、同時にまた、「明治維新と博徒」という結びつきについて、きわめて有益な示唆を与えた本でもあった。さらに、赤報隊と博徒との関わりは、この本によって、初めて示唆されたのであった。
同書によれば、幕末の岐阜に、水野弥太郎(本名・弥三郎)という有名な博徒の親分がいた。合渡の政五郎、関の小左衛門とともに、美濃三人衆と称されていたという。
 慶応四年(一八六八)二月、その水野弥太郎が総督府の命を受けた大垣藩によって召し捕られ、数日後に獄死するという事件があった。その際、東山道鎮撫総督執事の名で、次のような「掲榜」が掲げられたという。

 尾張領岐阜在 水野弥太郎
 右ノ者従前天下ノ大禁ヲ犯シ、子分ト称シ候無頼ノ徒ヲ嘯集シ奸吏ト交ヲ結ビ良民ヲ悩シ候件々少ナカラズ、剰へ官軍ノ御威光ヲ仮リ〔借り〕恣ニ人命ヲ絶候段不届至極ニ付召寄セラレ御詰問ノ処、一言申訳相立ズ伏罪ニ及ビ候ニ付入牢仰付ラレ近々斬罪ノ上梟首仰付ラルベキ筈ノ処、死去イタシ候ニ付其ノ儀ニ及バズ候、百姓町人共、右ノ次第篤ト相心得可キ者也。
  二月 東山道鎮撫総督執事
〔尾張領岐阜在 水野弥太郎 右の者、以前から天下の禁制を犯し、子分と称する無頼の徒を呼び集め、腐敗役人と交際して良民を悩ませることが少なくなかった。のみならず、官軍の御威光を借りて、ほしいままに人命を損なったことは不届き至極であり、召喚して詰問したところ、一言も弁明できず罪に服することとなり入獄を命じられたのである。近々斬罪とし、首をさらす予定だったが、獄中で死去したのでその儀には及ばない。百姓や町人どもは、右の経緯をよく心得ておくべきである。 二月 東山道鎮撫総督執事〕
 
 この一件について、長谷川昇は、「剰へ官軍ノ御威光ヲ仮リ」という字句、あるいは捕縛された時期から考えて、水野弥太郎とその子分たちが、「この直前にこのあたりを通過して東上して行った相楽総三らの赤報隊に関連しているものと思われる」と述べたのであった。
 その後、長谷川は、「黒駒勝蔵の『赤報隊』参加について――水野弥太郎冤罪・獄死事件」(『東海近代史研究』第四号、一九八二)というスリリングな論文を発表し、赤報隊には、水野弥太郎のみならず、清水次郎長の宿敵として知られる甲州博徒・黒駒勝蔵も加わっていたことを論証した⒁。のみならず、こうした有力な博徒が加わったことが、結果として赤報隊の悲劇を招いた可能性があることを説いたのであった。
 残念ながら、この重要論文は、大きな図書館で、『東海近代史研究』のバックナンバーを閲覧する手続きをとらないと読むことはできない。しかし、『攘夷と皇国』に、その梗概を紹介しておいたので、ご参照いただければ幸いである。

⒀ 名古屋事件の指導者・実行グループは、ほとんどが博徒であった。この事実を初めて明らかにしたのは、『博徒と自由民権』である。
⒁ 慶応四年(一八六八)四月、鎮撫使・四条隆謌の親衛隊長・池田数馬と名乗る人物が東海道を東に向かい、駿府を通過しようとしていた。この池田数馬の正体は、黒駒勝蔵であった。このとき黒駒は、同地の大親分・安東文吉に仲介を依頼し、宿敵の清水次郎長と和解したとされる。なお黒駒は、明治四年(一八七一)、旧幕時代の罪を問われて斬に処せられた。

 以上が、第六章の第六節である。ルビは、すべて割愛した。

*このブログの人気記事 2023・5・23(10位になぜか川内康範)

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赤報隊が「偽官軍」とされた理由

2023-05-22 03:02:18 | コラムと名言

◎赤報隊が「偽官軍」とされた理由

 拙著『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」の一部を紹介している。本日は、その二回目。同章の第二節を紹介する。

◎年貢半減令ゆえの処分か
 諏訪の地においては、相楽総三は、今日でも崇敬の対象となっているという。では、その相楽らの赤報隊が、なぜ「偽官軍」とされたのか。相楽を初めとする幹部は、なぜ処刑されなければならなかったのか。
 近年の理解では、このあたりの問題は、「年貢半減令」が重要なポイントになっている。明治維新の通史として定評のある田中彰著『明治維新』(日本の歴史24、小学館、一九七六)は、赤報隊が「偽官軍」として処分された背景として、「新政府にとっては、年貢半減令をふりかざす彼ら〔相楽隊〕が、『世直し』の潮流をいちだんとはげしくし、それとむすびつくかもしれない、という危惧があった」という説明をしている。
「年貢半減令」に着目するこうした解釈は、実は、高木俊輔著『維新史の再発掘』(NHKブックス、一九七〇)によって初めて普及したものであって、これは比較的新しい解釈である。
 戦中に初版が出た長谷川伸(一八八四~一九六三)の『相楽総三とその同志』(新小説社、一九四三)は、相楽総三と赤報隊の再評価に道を開いた名著であるが、「年貢半減令」にはほとんど触れていない。長谷川がこの本で強調したのは、相楽隊の「冤罪」、すなわち❶赤報隊が総督府の命令に従わなかった、❷金穀を掠めたという二つの「冤罪」を雪ぐことにあったと思われる。
 前掲の『諏訪の歴史』(一九五五)は、高木氏の『維新史の再発掘』(一九七〇)より十五年も前の本である。年貢半減令にも少し触れているが、それが処分に結びついたという見解は取ってない。参考までに、関係部分を引用してみよう。

 新しい軍〔岩倉具定を総督とする新しい東山道軍〕からは〔相楽〕総三に止まれと命令が来た。しかし赤報隊は止まらなかった。そのうえ資金をえるために沿道の諸藩にかけあったり、租税の半減を約束して金を出させたりする者もあって、次第に評判が悪くなった。混乱どきの常として無頼の徒が赤報隊の名をかりて地方の豪家に押入って強盗をはたらくものもあって益々評判が悪く、名古屋藩その他からは「あの赤報隊を止めないならば今後官軍には協力しない。」という共同の抗議が来るありさまになった。幹部は勤王の同志であるが他の募られて来た部下たちには無頼漢が多かったので一軍の統制は極めて困雑で、こうした批難をうける理由も少なくなかった。

 相楽隊が、❶軍令違反を問われ、❷略奪行為を問われていたことを明確に指摘しており、しかもその嫌疑を裏づける事実があったことを示唆している。『相楽総三とその同志』で長谷川伸が示した「冤罪」説とは、明らかにスタンスが異なる。年貢半減令については、「租税の半減を約束して金を出させたりする者もあって」という文脈で触れられているのみである。相楽隊に対しては非情ともいえる記述であり、「処分側」の論理に近いという印象すらある。
 高木氏の赤報隊論は、そうした従来の赤報隊観に対し、再考を迫るものであった。赤報隊は「年貢半減令」ゆえに「偽官軍」の汚名を負ったという高木氏の主張は、長谷川伸とは別の角度から、赤報隊「冤罪」説を補強したものと言ってよいだろう。
 なお、『諏訪の歴史』からの引用部分で、ひとつ注目すべきは、「募られて来た部下たちには無頼漢が多かった」という指摘である。この問題については、このあと検討したいと思う。

 以上が、第六章の第二節である。ルビは、すべて割愛した。
 このあとに、第三節「取り消された年貢半減令」、第四節「幕領ノ分ハ賦税ヲ軽ク致シ」、第五節「薩州藩へ委任致し候」が続くが、これらはすべて割愛し、明日は、第六節「赤報隊と博徒」を紹介する。

*このブログの人気記事 2023・5・22(10位の東條英機は久しぶり)

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