◎田中耕太郎、新渡戸稲造を語る
昨年の10月から11月にかけて、田中耕太郎の文章をいくつか紹介した。
田中耕太郎には、エッセイ風の文章もあるが、これがなかなか良い。以前、読んで面白いと思ったのは、「新渡戸先生と倫敦の思ひ出」というエッセイだった。新渡戸先生とは、国際連盟事務局次長などを務めた新渡戸稲造(にとべ・いなぞう、1862~1933)のことである。
本日以降、このエッセイを紹介してゆきたい。かなり長いので、ところどころ割愛しながら紹介してゆくことになろう。
田中耕太郎著『教育と権威』(岩波書店、1946)に収録されているものを引用する。初出は、1939年(昭和14)中に発行された『文藝春秋』と思われるが、巻号は確認していない。
新渡戸先生と倫敦の思ひ出
私が一高に在学してゐたのは明治四十一〔1908〕年から同四十四年〔1911〕までであつた。その期間は新渡戸先生が一高校長として最も油が乗つてゐられ、一高に全力を傾倒せられてゐた時である。私が内務省から大学に帰つて来て助教授を拝命した大正六年〔1917〕頃にはまだ経済学部が独立してゐなかつた法科大学時代で、先生が教授会で当時の中堅教授の間の舌端〈ゼッタン〉火を吐くやうな激論を、例の、先生の写真によく見受けられるやうに、右の指先で以て軽く下顎を支へたやうなポーズ――このポーズは先生の表面だけの模倣者流がやるときにはきざで堪らないものであるが、先生に於てはそれが極めて自然に見えた――をしながら、総てよしよしと是認するやうな態度で論争の外に超然と静に瞑目してゐられた様子が今日尚ほ眼底に彷彿としてゐる。
斯様な事情に拘らず私は先生に個人的に接近する機会に恵まれてゐなかつたし、又先生のやうな偉い人物に自分から進んで接近するだけの資格が欠けてゐるやうに思へたので、遠方から遥に敬慕してゐたやうまわけであつた。所が偶然一つの機会が到来した。私は私よりも遥に先生に接近してゐた人々が持ち得なかつた特権と幸福とをもつことが出来た。
私が留学生として海外に派遣せられたのは今から二十年前、世界大戦巴里〈パリ〉講和会議の直後、大正九年〔ママ〕(一九一九年)のことであつた。全く一介の赤毛布〈アカゲット〉として倫敦〈ロンドン〉と云ふ大都会に到着して見ると講和会議の余波を受けて宿と云ふ宿は全部満員である。私は当惑し心細い限りであつた。其処で思ひ出したのが新渡戸先生が国際連盟の事務次長として当時倫敦にゐられると云ふことである。(連盟事務局が一時倫敦にあつたことは読者も御承知のことと思ふ。)私は先生は世間が広いから適当な英国人の家庭でも世話していたゞけるかと思つて、ケンシングパークの西北方ホツランドパーク六十六番のパンシオン〔pension〕にゐられた先生の所に「窮鳥懐に入れば」と云ふ具合にころげ込んで行つた。
勿論私が先生の所に居据らう〈イスワロウ〉なんと云ふ厚かましい意図を持つてゐなかつたことだけは慥か〈タシカ〉である。所で、先生は猟夫であつたのみならず、非常に親切な猟夫であつた。先生は三室占領してゐられたが、勿論私を置くやうな余裕はなかつたのに拘らず、シッチング・ルーム〔居間〕のソーファの上に当分寝るやうにと云つてくれられた。私は先生の許で、小鳥のやうに何の心配や不安もなく、三四週間だつたか、もつと長く二三ケ月だつたか忘れてしまつたが、相当の期間先生のソーファの上で起居した。この生活はその年の暮近くになつて先生の夫人が先生の秘書原田健君と前後して、北米経由で到着されたので終了を告げ、私の方でも丁度チェルシーに或る適当な英国人の家庭が見つかつたので、そこに移ることになつた。私はその後は以前と違つて先生を独占することが出来なくなつた。それ故甚だ相済まぬことだが正直の所あんなに人のよい立派な新渡戸夫人をうらんだのであつた。〈132~134ページ〉【中略をはさんで、次回】
文中、「大正九年(一九一九年)」とあるのは、原文のまま。ここは、「大正十年(一九一九年)」と訂正されなくてはならない。