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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

四・一八空襲にともなう東部軍司令部発表

2023-05-29 02:02:17 | コラムと名言

◎四・一八空襲にともなう東部軍司令部発表

 国立国会図書館のデジタルサービスで、藤本弘道著『踊らした者――大本営報道秘史』(北信書房、1946年7月)という本を閲覧していたところ、「四・一八空襲」に関する記述を見つけた。
「四・一八空襲」とは、1942年(昭和17)4月18日に、米軍がおこなった本土初空襲のことである。今日では、指揮官の名前を取って、ドーリットル空襲と呼ばれることが多い。
 同書は、「愚かなる大本営発表」、「陸海軍報道不協調」、「航空戦報道秘話」などの章からなるが、「航空戦報道秘話」のところに、「四・一八空襲」に関する記述がある。早速、これを引用してみよう。

 現地より中央へ報告して来る場合、その責任者である現地部隊長と参謀長とは、実際戦闘に参加した将兵の直接報告を基礎に戦果を審査確認したるのちに報告して来るのであるが、その部隊長達の人格がこの報告に反映する面は重大なるものがあると考へなければならない。戦果を内輪に見積もる人と誇大に考へる人と、その性格はかなりその判定に影響をあたへる。而も日本の軍人教育に於いては、部隊長の下した断には絶対的の権限が付与されてゐるのであるから、その影響は二倍にも三倍にも重要さを加へる結果となるのである。ここにその過失の一要点が存生〈ゾンジョウ〉してゐるのである。
 次に考へられるのは、その最初の戦果報告者が正確であるか否かといふ問題である。地上戦闘の場合は、その結果はそこに具体的な現象或ひは證拠となつて数人或ひは数百人の眼によつて判然と示される。戦場の各部隊の進退や戦線凹凸がそれを示し、敵軍の遺棄死体や鹵獲品(ロカクヒン)の実数がそれを明示する。然し航空戦となるとさうは決定しかねるのである。戦場は常に遥か離れた空間に於いて行はれるのが普通である。而もその戦闘場面は無限に近い程の移動性を持つてゐる。従つて、その戦闘が地上部隊から確認出来る空中に於いて開始された場合でも、その移動性によつて、戦果は地上で確認出来ない場合が無数にあるのである。その戦果確認は結局その戦闘者自身、即ち航空機搭乗者自身の判決にまたねばならぬ結果となるのである。そしてその判決が果して正確なものであるか否かは、相当疑問となる場合が多い。その好い実例は、昭和十七年〔1942〕四月十八日午後零時半頃から約一時間にわたつて、東京・名古屋・神戸などが太平洋戦争勃発以来始めて米機によつて空襲された、あの所謂八・一八空襲騒動の戦果報告にみることか出来る。
 あの日の午後二時の東部軍司令部発表に、
《午後零時三十分頃敵機数方向より京浜地方に来襲せるも我が空、地両防空部隊の反撃を受け逐次退散中なり。現在までに判明せる撃墜機数は九機にして我が損害は軽微なる模様なり。》
とあつた。その戦果『九機撃墜』なるものが何処から割出されてゐるかといふことがこの場合の実例となるわけである。
 この戦果に就いてはその後なんの公示もされなかつた。その翌々日〔4月20日〕この空襲に就いて詳細に調査した結果を三項目にわたつて『大本営発表』したのであるが、それにも戦果に就いては一言も触れてゐない。
 といふことは、この戦果が不確実そのものであつたからだ。〈85~87ページ〉【以下、次回】

 この記述によって、この本土初空襲に関しては、空襲の当日、東部軍司令部から、「撃墜機数は九機」という発表がなされたことを知った。

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