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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

赤報隊が「偽官軍」とされた理由

2023-05-22 03:02:18 | コラムと名言

◎赤報隊が「偽官軍」とされた理由

 拙著『攘夷と憂国』の第六章「赤報隊の悲劇」の一部を紹介している。本日は、その二回目。同章の第二節を紹介する。

◎年貢半減令ゆえの処分か
 諏訪の地においては、相楽総三は、今日でも崇敬の対象となっているという。では、その相楽らの赤報隊が、なぜ「偽官軍」とされたのか。相楽を初めとする幹部は、なぜ処刑されなければならなかったのか。
 近年の理解では、このあたりの問題は、「年貢半減令」が重要なポイントになっている。明治維新の通史として定評のある田中彰著『明治維新』(日本の歴史24、小学館、一九七六)は、赤報隊が「偽官軍」として処分された背景として、「新政府にとっては、年貢半減令をふりかざす彼ら〔相楽隊〕が、『世直し』の潮流をいちだんとはげしくし、それとむすびつくかもしれない、という危惧があった」という説明をしている。
「年貢半減令」に着目するこうした解釈は、実は、高木俊輔著『維新史の再発掘』(NHKブックス、一九七〇)によって初めて普及したものであって、これは比較的新しい解釈である。
 戦中に初版が出た長谷川伸(一八八四~一九六三)の『相楽総三とその同志』(新小説社、一九四三)は、相楽総三と赤報隊の再評価に道を開いた名著であるが、「年貢半減令」にはほとんど触れていない。長谷川がこの本で強調したのは、相楽隊の「冤罪」、すなわち❶赤報隊が総督府の命令に従わなかった、❷金穀を掠めたという二つの「冤罪」を雪ぐことにあったと思われる。
 前掲の『諏訪の歴史』(一九五五)は、高木氏の『維新史の再発掘』(一九七〇)より十五年も前の本である。年貢半減令にも少し触れているが、それが処分に結びついたという見解は取ってない。参考までに、関係部分を引用してみよう。

 新しい軍〔岩倉具定を総督とする新しい東山道軍〕からは〔相楽〕総三に止まれと命令が来た。しかし赤報隊は止まらなかった。そのうえ資金をえるために沿道の諸藩にかけあったり、租税の半減を約束して金を出させたりする者もあって、次第に評判が悪くなった。混乱どきの常として無頼の徒が赤報隊の名をかりて地方の豪家に押入って強盗をはたらくものもあって益々評判が悪く、名古屋藩その他からは「あの赤報隊を止めないならば今後官軍には協力しない。」という共同の抗議が来るありさまになった。幹部は勤王の同志であるが他の募られて来た部下たちには無頼漢が多かったので一軍の統制は極めて困雑で、こうした批難をうける理由も少なくなかった。

 相楽隊が、❶軍令違反を問われ、❷略奪行為を問われていたことを明確に指摘しており、しかもその嫌疑を裏づける事実があったことを示唆している。『相楽総三とその同志』で長谷川伸が示した「冤罪」説とは、明らかにスタンスが異なる。年貢半減令については、「租税の半減を約束して金を出させたりする者もあって」という文脈で触れられているのみである。相楽隊に対しては非情ともいえる記述であり、「処分側」の論理に近いという印象すらある。
 高木氏の赤報隊論は、そうした従来の赤報隊観に対し、再考を迫るものであった。赤報隊は「年貢半減令」ゆえに「偽官軍」の汚名を負ったという高木氏の主張は、長谷川伸とは別の角度から、赤報隊「冤罪」説を補強したものと言ってよいだろう。
 なお、『諏訪の歴史』からの引用部分で、ひとつ注目すべきは、「募られて来た部下たちには無頼漢が多かった」という指摘である。この問題については、このあと検討したいと思う。

 以上が、第六章の第二節である。ルビは、すべて割愛した。
 このあとに、第三節「取り消された年貢半減令」、第四節「幕領ノ分ハ賦税ヲ軽ク致シ」、第五節「薩州藩へ委任致し候」が続くが、これらはすべて割愛し、明日は、第六節「赤報隊と博徒」を紹介する。

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