goo blog サービス終了のお知らせ 

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

場合によつては句読を改めた(林茂)

2016-10-26 04:49:33 | コラムと名言

◎場合によつては句読を改めた(林茂)

 尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉の『維新前後に於ける立憲思想』の実業之日本社版(一九四八年一〇月一五日)を紹介している。本日は、同書の「凡例」を紹介してみたい。この凡例は、実業之日本社版の校訂者・林茂によるものである。
 なお、明日は、いったん、話題を変える。

   凡  例

一 表題は初版(大正一四年文化生活研究社版)によつた。
二 底本として本文および「緖言」は大体において第三版(昭和九年中文館版)により、再版(昭和四年邦文堂版)所収著者の「普及版を出すに就いて」および、初版ならびに再版所収吉野作造博士の「本書推薦の辞」を加へた。
三 「索引」は原著収載のものに基いて頁数など必要な修正を加へた。
四 前項に挙げたもののほか、各版所収の付録ならびにそれに類するものはすべて除いた。
五 本文に直接関係の少いうめくさ〔埋め草〕的な挿入文は、本文の意を害はないかぎり、省いた。
六 口絵および挿絵は本文の記述と直接関係する一葉だけ〔明治二年の議会(公議所)之図〕を収めた。
七 著者の記述中固有名詞などで明かに誤りを認められるものについては訂正したところがある。
八 明かな誤植誤字を訂正したほか、場合によつては句読〈クトウ〉を改めた。なほ活字の体裁・大さ〈オオキサ〉など改めたものもある。
九 引用された資料については、できるかぎり、原典にさかのぼつて校訂し、その場合には典拠(たとへば、著者・刊行年・頁数など)を新たに付記した。ただ、原典中の変体がなで普通のかなに改めた場合、著者の付けた句読点はそのままにした場合がある。
一〇 校訂者が加へた註はアラビヤ数字で示し、本文の終りに付記した。索引は実業之日本社が訂正した。
一一 本文中六号活字をつかつて角括弧〔 〕で現した文字は「帝国議会史前記」が掲載された雑誌「法律及政治」の巻号・発行年月・頁・所載番号などを示すものである。

*このブログの人気記事 2016・10・26(3・5位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

著者も著者だが本屋も本屋だ(吉野作造)

2016-10-25 09:06:19 | コラムと名言

◎著者も著者だが本屋も本屋だ(吉野作造)

 昨日の続きである。尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉の『維新前後に於ける立憲思想』の実業之日本社版(一九四八年一〇月一五日)を紹介している。なお、昨日、言い忘れたが、この本は、未完成のまま中断した「尾佐竹猛全集」の第一巻にあたる。
 本日は、実業之日本社版の巻頭に置かれている吉野作造博士の「本書推薦の辞」を紹介する。この一文は、同書の文化生活研究会版(一九二五)、邦光堂版(一九二九)の巻頭にあったが、中文館書店版(一九三四)では省かれた。それが、戦後の実業之日本社版で復活したのである。
 なお、文中に、年齢の話が出てくるが、吉野作造の生没年は、一八七八~一九三三、佐々木惣一のそれは、一八七八~一九六五、尾佐竹猛のは、一八八〇~一九四六である。

 本 書 推 薦 の 辞
 本書の公刊を勧めたのはたしかに私だ。公刊を勧めたからとて序文を書かねばならぬ義理はない。尾佐竹君は私に何か書くべき義務あるかに決め込んでをさまつて〔納って〕ござる。こツちも平気で知らん顔で居ると、印刷も段々功を進め遂に書肆の方から序文はまだかと催促して来る。それでも知らん顔して済まして居ると、とうとう尾佐竹君がやつて来た。時は大正十四年〔一九二五〕十一月十二日の夜、退ッ引〈ノッピキ〉ならず承諾を余儀なくさせられて今日の午後やうやく筆を取る。尾佐竹君は実は斯の〈コノ〉方面の研究に於て私の先生格だ。だから序文などを書くに気がひける。けれども先生の懇嘱はまた拒み難い。だから恐る恐る筆を執る次第である。
【一行アキ】
 十二日の夜、尾佐竹君と入れ違ひに京都帝大の佐々木惣一君が来た。玄関先でお互を簡単に紹介し、尾佐竹君を送つて佐々木君を客間に迎へる。尾佐竹君テ未だ〈マダ〉若いんだナと佐々木君がいふ。年は聞いたことはないが成程私共(佐々木君と私とは同年である)より若いやうだ。而して若いと不思議がられるのは、尾佐竹君は幕末から明治初年の古い所を永年丹念に研究して居られるからだ。あんな事をやつて居ると老人と間違られて困るとは、尾佐竹君自身からも屡々聞く述懐である。
 そこで問題は、幕末維新の研究は一体老人の閑事業たるべきものかどうかといふことになる。開き直つて斯う〈コウ〉訊くと、誰もハイ左様といふ人はないが、従来の世間は、尾佐竹と聞いてすぐ老人を連想する程、此種の研究をば閑事業視して居た。之と同時に、尾佐竹君の維新研究も亦よく知れ渡つた事柄である。斯くして尾佐竹君のこの研究には少くとも次の二つの特色がある。第一は従来多く老人の閑事業として弄ばれてゐた事柄を生気潑剌たる若い頭で研究してゐるといふことで、第二は老人と思はれる程同君は青春の時代から永年この研究を継続されて居ることである。
【一行アキ】
 斯うした研究を尾佐竹君は何年程やって居るのか、之もまだ聞いた事はない。私が大正十年の秋から真剣に始め出した経験から推測すると、二十年は少くとも経過してゐる筈だと思はれる。幕末から明治の初年に亘つては勿論のこと、実は明治から大正にかけての出来事でも、何の問題を持て行つたつて同君で埒〈ラチ〉の明かぬ事はない。聞いても居られるだらうが読んでも居られる。殊に根本資料の蒐集に至っては驚くべき程豊富であつて、而も〈シカモ〉その範囲は普ねく文化各般の方面に亘つて居る。同君の如きこそ真に〈シンニ〉活き字引といふべきである。徳川文化に大槻如電〈オオツキ・ジョデン〉あり明治文化に尾佐竹雨花〈ウカ〉子ありと謂て〈イッテ〉も失当ではあるまい。私の先生格だから讃める〈ホメル〉のではない。之だから私が先生として崇め奉つてゐる訳も分るだらう。大審院判事などにしておくには本当に惜しい代物〈シロモノ〉である。
 尾佐竹君を私が識つたのは割合に新しい。「法学志林」などに明治初年のことを断片的によく書く雨花生の名は固より〈モトヨリ〉古くから知つて居た。「法学志林」は面白い老人を捉へて居るなと永い間之を愛読して居つた〈オッタ〉が、之が壮年の尾佐竹君だとは実に意想の外であつた。先年穂積重遠〈ホヅミ・シゲトウ〉君の紹介で大学の集会所で相見た〈アイミタ〉のを始めとし、其後時々往つては珍本を見せて貰つたり御話を伺つたりして居る。此頃は驥尾〈キビ〉に付して明治文化研究会を作つて居るので接する機会は多くなつた。そして相識る〈アイシル〉こと深ければ深い程、同氏の蘊蓄〈ウンチク〉蔬蓄の量るべからざることに驚歎せずには居られない。従て本書の如きは同氏の学識から云へば実はホンの片鱗に過ぎないのである。
 尾佐竹君の本書は、著者の蘊蓄からいへばホンの片鱗に過ぎないが、学界に対する新提供としては、実に処女地に打建てられた一大標本と謂つていゝ。といふ意味は、第一に本書が取扱つた部門に於て我国は未だ一冊も学術的著書を有たないのである。有るものは多くは全然根本資料に触れざるお座なりの書きなぐりに過ぎぬ。第二に今後誰がこの方面の硏究を嗣いで〈ツイデ〉も一寸〈チョット〉本書だけのものゝ出来る見込はないと信ずる。尾佐竹君の有つてる〈モッテル〉位の資料を集める丈け〈ダケ〉でも十年位はかゝるからだ。加之〈しかのみならず〉斯〈この〉種の硏究は疾に〈ツトニ〉無かる可らず〈ベカラズ〉して永く無かつたものである。然らば本書の学界に於ける地位や多言を要せずして明〈アキラカ〉であらう。
 初め本書の早稿は雑誌「法律及政治」に載せられた。全部結了するまで二年余の歳月を費したかと思ふ。之を切り取つて私は立派に製本し、日夕〈ニッセキ〉参考して現に多大の益を得て居る。而して其のうち一冊の本になることと待つてゐたが一向そんな気色もない。著者の無頓着は致し方がないが、之れ程の原稿に眼をとめぬ本屋の間抜けさ加減は一体どうしたものだ。著者も著者だが本屋も本屋だ、公益の為之は黙視してはおけぬと憤慨したのだが、著者にすゝめ書肆に説いて遂に公利を見るに至つた原因である。尾佐竹君が私に序文を求めたのは、産婆役たる私に花を持たす積りかも知れぬが、若しさうならそれは有り難迷惑〈アリガタメイワク〉の至りだ。が、それでも斯かる不朽の名著に序するの光栄を思ふと、心ひそかに満悦を覚へぬでもない。
 此本の売れる売れぬは私の関する所ではない。只明白疑〈ウタガイ〉のない事は、苟くも〈イヤシクモ〉明治文化の研究に志す者、就中〈ナカンズク〉明治憲政の発達に説する確実なる知識を得んとする者は、必ず本書一本を座右に具ふる〈ソナウル〉に違ひない事である。本書を一度も読まずしては明治文化を語るの資格はなく、明治憲政史の正確なる知識は本書を閑却する者には恐らく絶対に閉ぎさるべきを以てゞある。此意味に於て本書は篤学の読書子から大に〈オオイニ〉歓迎せらるべきは論を待たぬ。而して〈シコウシテ〉私のこゝに長々と敢て推薦の辞を列ぬる〈ツラヌル〉所以は、本書が少数の篤志家以外にも広く普及せんことを希望するからに外ならぬ。専門的の六つかしい〈ムツカシイ〉書き方を取つて居ないことも、此際付け加へて申しておく。
【一行アキ】
 最後に私は篤学なる読書子を代表して著者に数ケ条の註文を述べておきたい。一は本書の外従来発表せられた諸篇をも全部彙類して近く刊行せられんことである。二は今後とも注意して本書の訂正増補を心掛けられんことである。三は漸次本書の続編に筆を染められ切めて〈セメテ〉日清戦争頃までゞもの明治文化史を大成せられん事である。之等みな著者を煩さずしては容易に出来ぬ仕事だ。著者の健勝を真に心から祈つて熄まない〈ヤマナイ〉。
  大正十四年十一月十五日
          吉 野 作 造

*このブログの人気記事 2016・10・25

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『維新前後に於ける立憲思想』実業之日本社版

2016-10-24 05:40:06 | コラムと名言

◎『維新前後に於ける立憲思想』実業之日本社版

 尾佐竹猛〈オサタケ・タケキ〉の名著『維新前後に於ける立憲思想』には、一九二五年(大正一四)の初版以来、各種の版がおこなわれているが、最も参照に値するのは、戦後の一九四八年(昭和二三)一〇月一五日に出た実業之日本社版であろう。林茂による校訂がゆきとどいているからであり、同じく林茂による「解題」がすぐれているからである。
 本日は、同書の「解題」の「一」を紹介してみたい。

  解  題
            林  茂
   一
 先づこの書「維新前後に於ける立憲思想――帝国議会史前記」の成立ち〈ナリタチ〉から見ることにしよう。この書が書物のかたちではじめて世に公けにされたのは大正一四年一二月のことであるが、故吉野作造博士がこの書の巻頭に収められた「本書推薦の辞」で明かにされてゐるやうに、その内容はすでに「帝国議会史前記」と題して明治大学明大学会発行の雑誌「法律及政治」第一巻第二号(大正一一年六月)から第三巻第六号(大正一三年六月)まで――その間第一巻第八号だけ載せられなかつた。第二巻は震災のために九、一〇の二ケ月は休刊して発行されたのは一〇号だけであつた。合せて二二回二年余にわたつてその「資料」欄に連載されてゐたものである。それを、吉野博士によれば、同博士のすすめとあつせんとで一本にまとめて一年半後に公刊されたもののやうである。
 この書には三つの版がある、といつてもよからう。
 初版は四六版一冊、上にも述べたやうに、大正一四年一一月二九日印刷同年一二月一日発行、東京銀座の文化生活研究会から発兌〈ハツダ〉され、発行者は東京市京橋区尾張町二ノ一五福永重勝、印刷者は同芝区南佐久間町一ノ三和田操、定価四円五〇銭である。本文六九八頁、それに著者の緒言八頁と索引一七頁とがそれぞれ巻頭ならびに巻尾につけられてゐるほか、巻頭に前掲吉野博士の「本書推薦の辞」が収められてゐる。なほ口絵および挿絵として、明治二年の議会(公議所)之図、阿部伊勢守正弘、箕作阮甫〈ミツクリ・ゲンポ〉と米国議事堂(地球説略所載)、万延元年の遣米使節、文久元年魯都〔サンクト・ペテルブルグ〕に於ける福澤諭吉と文久二年伯林〈ベルリン〉に於ける福地源一郎、坂本龍馬・後藤象二郎(慶応三年の)、文久二年和蘭〈オランダ〉に於ける西周助と津田真一郎〔真道〕と天保五年の大鳥圭介、橋本左内と嵯峨根良吉〈サガネ・リョウキチ〉、長崎に於ける大隈八太郎(重信)と副島二郎(種臣)、横井小楠、征夷大将軍徳川慶喜、明治天皇、徳川慶喜、福澤論吉と加藤弘蔵誠之、柳河春三、五箇条の御誓文第一案、三岡八郎(子爵由利公正)・大政官拾両札、五箇条の御誓文第二案、木戸準一郎(孝允)、明治天皇、明治元年函館に於ける榎本釜次郞〔武揚〕と荒井郁之助、山内容堂・大村益次郎、戊辰戦役の土佐軍、明治二年の神田孝平〈タカヒラ〉、三条実美・岩倉具視、慶応四年江戸の目安箱、明治二年の東京図(公議所及び待詔局の位置を示す)、岩倉具視、集議判官神田孝平、江藤新平、河野信次郎廣中(十八歳)と自由之理および大蔵大輔井上馨・参議大隈重信・工部大輔伊藤博文の計三二葉、収録写真絵図四二種がある。
 第二版は前後両篇二冊に分けて、前篇は昭和四年四月一五日増訂改版、後篇は同年一〇月五日印刷同一〇日発行された。発行者は東京市神田区三崎町二丁目十一番地邦光堂前田重蔵、印刷者は同芝区南佐久間町一丁目三番地和田操、定価はそれぞれ二円ならびに二円五〇銭、表紙背に「増補」の文字があり、増補改訂版であると同時に普及版でもある。前篇は本文「第九章五箇条の御誓文」まで三〇八頁 、および付録として「五箇条の御誓文と木戸孝允」(一―一二頁)ならびに「五箇条の御誓文」(一二―一七頁)の二篇計一七頁をおさめた。それぞれ「新旧時代明治文化硏究」(第三年第九冊)および「経済往来」(第三巻第一号)に発表されたものである。なほこの巻には吉野博士の「本書推薦の辞」の他、別に本書初版公刊後、著者におくられた穂積陳重、上杉慎吉、美濃部達吉、末弘嚴太郞、穂積重遠、立〈タチ〉作太郞、三浦周行、小野清一郞、鵜沢総明および石井研堂諸氏の私信の全部または一部、同じ頃この書に対して公けにされた批評紹介すなはち、徳富蘇峰「維新前後に於ける立憲思想を読む」(国民新聞大正一五年二月一九日)、内田魯庵「読書巡礼」(抄)(中央公論大正一五年一二月第四一巻第一二号)、奥平武彦「維新前後に於ける立憲思想」(国家学会雑誌第四〇巻第二号)、「時評」(法律新聞第二五四三号)および平林初之輔「維新前後に於ける立憲思想を読む」(大正一五年一〇月一七・八日都新聞)など計三四頁をおさめた。後篇には「第十章政体書」以下の本文三〇七―六九八頁の他、巻頭に昭和四年一月二六日史学会講演、後に同会編「明治維新史研究」(昭和四年)に収められた「明治維新の憲政史的意義」(三二頁)を加へ、巻尾に「地方民会」(一―四六頁)「明治初年に於ける憲法制定の議」(四七―一〇二頁)および「初期の政党」(一〇三―一二五)の三篇計一二五頁を付録とした。それぞれ「明治文化」(第五巻第八・九号)、「明治文化研究」(第四巻第九・一一冊第五巻第一・三・四冊)および「社会学雑誌」(昭和四年四月)に発表せられ、最初のものは発表後少し加筆されてこの書に収めたものである。「索引」が収められたことは初版と同様である。なほ口絵および挿絵は初版収録のもののほか御誓文発布式場の図、五箇条の御誓文第三案の二葉二種が前篇に、政体書の草案、行政官の印、副島二郎(種臣)と福岡孝弟、明治元年の板垣退助、太政官の印、集議院の印および左院の印の計七葉八種が後篇に都合九葉一〇種が新に加へられ、すなはち前後両篇合計四一葉五二種が収められた。
 ところが著者はその後「維新前後に於ける立憲思想の研究――帝国議会史前記――」を世におくられた。四六版一冊、昭和九年九月五日印刷同九日発行、発行所は東京市牛込区弁天町一七四番地中文館書店、発行者は同番地中村時之助、印刷者は同芝区田村町四ノ二〇番地福井安久太、定価四円五〇銭である。題名はすこしちがつてゐるがその内容は前の二書とほぼ同様である。前にあげた書の第三版といつてさしつかへがないであらう。さきに、この書には三つの版があるといつてもよからう、と記した所以である。本文六九八頁、付録として再版前後両篇に収められた五篇の中「初期の政党」の一篇は「明冶文化研究」第一輯(昭和九年)に発表された「坂本龍馬の『藩論』」ならびにそれについての藤井甚太郎、西田長寿および大村丈夫の三氏の研究(一二〇―一四七頁)ととりかへられた。「明治維新の憲政史的意義」(六九九―七三〇頁)と「索引」とを巻尾に付けたことは再版と同様であるが、初版以来の吉野博士の「本書推薦の辭」ならびに再版に収められた著者自身の「普及版を出すに就いて」および諸家の書評・私信などはすべて除かれた。口絵および挿絵は、明治二年の議会(公議所)之図、五箇条の御誓文第一案、五箇条の御誓文第二案、御誓文発布場の図、五箇条の御誓文第三案、慶応四年江戸の目安箱、明治二年の東京図(公議所及び待詔局の位置を示す)および河野信次郞廣中(十八歳)と自由之理の八葉九種だけが収められてゐる。

*このブログの人気記事 2016・10・24(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防共護国団事件の余波

2016-10-23 07:04:19 | コラムと名言

◎防共護国団事件の余波

 今月一四日のコラムで木元幹三の『国家総動員法早わかり』(新生社書店、一九三八)に拠りながら、「防共護国団事件」を紹介した。この時は、同書の一五~一六ページを引用したが、本日は、それに続く部分を紹介したい。

 その〔防共護国団事件があった一九三八年二月一八日の〕前日津雲〔國利〕氏の警視総監訪問等を云々して本件は政府の国家総動員法案並に〈ナラビニ〉電力国家管理案議会通過工作と何等かの関連を有するものではないかとの疑惑が政民両党を支配し二月十九日午後の衆義院本会議に於ける末次〔信正〕内相の本件にする自発的発言並に民政党松田竹千代、政友会東武〈アズマ・タケシ〉両氏の緊急質問となつた。
 而してこれに先立ち衆議院各派交渉会は末次内相に対する質問者を決定し小会派を代表して第二議院倶楽部所属小山亮〈マコト〉氏の質問をもゆるすことにして居つた。松田氏の質問演説内容は別として東武氏の質問は政友会代議士会に於て安倍〔源基〕警視総監並に富田〔健治〕警保局長の糾弾が決議された内容とは恐らくかけ離れた内務当局に対する如何にも屈服的な内容のものであつて政民両党より猛烈な野次をあびせられ、次いで小山亮氏の質問に対して質問打ち切りの動議が民政党より提出されこの動議の採択問題において遂に近来稀に見る議場内暴力沙汰をすら捲き起すに至つた。
 末次内相が防共護国団事件によって相当窮地に立つと思はれたのもつかの間、政党内部にも既に抬頭してゐる革新派と現状推持派の内部抗争による他力の本願に救はれて当日の議会に於ては政府側の大勝利が記録された。
 小会派代表の小山亮氏は当日左の如き趣旨の演説草稿を用意して居つた。
 政党内部の暗闘を議会にまで延長して重要国策の審議を妨げるが如き、国家の革新政策を阻害するが如き既成政党、並に存在意義を失ひ偽装的転向にカモフラージユしてゐる社会大衆党に対して解散を命ずる意思ありや否や。これを前程として防共護国団事件に言及し津雲氏の名前を引用せんとして居つた。津雲氏は直ちに〈タダチニ〉一身上の弁明と称してその直後これまた発言を用意し、その発言において既成政党内部の実状、非革新的政党ボスの策動内容等を一挙に暴露して自分は政党解党の目的をこれによつて進捗せしめ、政府の重要法案たる電力並に国家総動員法案通過の拍車たらんとしたのであつたと云ふ予定であつたといふ。
 これらの実状から見て目下政友会内部に鬱積楨してゐる解党運動と国家総動員法案との関連には深刻なるものがある。即ち政民両党の内務当局の糾弾が尚継続されるに於ては内務当局並にこれと相通じてゐる解党運動派に於ては政党取締りの歴史的変革とも称すべきお膳立てが出来て居つたとさへ云はれるのである。しかも政党解党運動の底流をなすものは政友会内閣国体明徴一派を前衛となし国家総動員、その他の革新的政府の政策に協力する点に結ばれて政府の内部に強く根を張り、広い範囲の関係を保ち電力並に国家総動員法案に対する既成勢力の咽喉を扼して〈ノドヲヤクシテ〉居ることが注目されるのである。

*このブログの人気記事 2016・10・23(5・8・9位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大屋久寿雄への弔辞(長谷川才次)

2016-10-22 06:26:28 | コラムと名言

◎大屋久寿雄への弔辞(長谷川才次)

 昨日の続きである。大屋久寿雄の『戦争巡歴』(柘植書房新社、二〇一六年九月)を紹介している。同書の七一五ページに、図版として、『時事通信社報』の第八〇号(一九五二・一・二〇)の第六面が載っている。
 本日は、その第六面から、告別式の際に読まれたという長谷川才次の「弔辞」を紹介してみたい。

 弔  辞
 大屋久寿雄君
 時事通伝社一千五百を代表してここに弔辞を述べさせていただきます。あの終戦の当時、君は日本放送協会にあり、われわれは同盟通信社の対外宣伝を担当しておりましたが、あいたずさえて和平の実現に骨折つたいきさつはすでに終戦秘史として記録に残されておりますので省きましよう。
 その後同盟通信社が自主的に解体したとき、君は卒先〔ママ〕、時事通信社の結成に参加し、創業艱難〈カンナン〉の際に卓抜した材幹と烈々たる気魄とをもつて社業の基礎を固めるのに寄与されました。
 君が病臥するに至つたのは仕事のために無理に無理を重ねた結果だつたのでありますが、病床にあつても、君の脳裏を去来するのは常に社の仕事でありました。われわれはしばらく仕事を忘れて療養に専念するようくりかえし君にすすめたのでありますが、社を愛する君の熱意は療養のための打算をゆるさなかつたのであります。
 大屋久寿雄君! 健康に阻まれて思う存分仂く〈ハタラク〉ことが出来なかつたのはさぞかし残念だつたことと思いますが、創業の当時における君の業績と灼熱的な君の愛社心とは、時事通信社の社史に特筆大書され、社僚同志の語り草となることでありましよう。君が生前口ぐせのように申しておりましたとおり君の肉体はあまりにも激しい君の性格と俊敏錐〈キリ〉のごとき君の英才とを背負い切れずに、重荷のもとに圧倒されたのでありますが君の業績は時事通信社ともに永遠に生き残るでありましよう。肉体は死して、しかも君は永生の門不死の境に入つたのであります。
 君以つて冥せよ。
 昭和二十六年十二月二十五日
   代表取締役 長谷川 才次

*このブログの人気記事 2016・10・22(10位にやや珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする