礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この間、生活上の窮乏が訳者を苦しめた(梶山力)

2016-10-05 04:22:31 | コラムと名言

◎この間、生活上の窮乏が訳者を苦しめた(梶山力)

 数年前のことだが、神保町の篠村書店(現在は廃業)の店頭に、マックス・ウェーバー著、梶山力〈ツトム〉訳の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(有斐閣)があるのを見かけた。函入り、布装で、ずっしりと重い上製本であった。買いたい衝動に駆られたが、諸般の事情から断念した。古書価は覚えていないが、廉価本の棚にあったもので、それほど高くなかったと思う。
 その後、社会学者の安藤英治〈ヒデハル〉氏が、この梶山訳の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を復刻されていることを知った(未來社)。梶山の訳に、復刻するだけの価値があったことを知って、篠村書店にあった一冊を買っておかなかったことを後悔した。
 その後、高円寺の古書展で、一九四六年(昭和二一)四月一〇日印刷発行の同書の第九版、定価「金拾八円(税共)」を見つけた。紙質はそれほど悪くないが、印面が荒れている箇所がある。少し迷ったが、購入することにした。古書価四〇〇円。

 同書冒頭の「訳者序文」が、なかなかの名文である。本日は、これを紹介し得みよう。
 なお、同書は、その初版(一九三八年五月二〇日発行)が、国立国会図書館に架蔵されており、デジタルコレクションを利用すれば、自宅でも閲覧できる。

 訳 者 序 文
 本書はマックス・ウェーバーの論文 Die protestantische Ethik und der ≫Geist≪ des Kapitalismus (zuerst 1904/1905) の邦訳である。
 原著の学的価値、マックス・ウェーバーの思想的立場等については、本書の序説に詳細に述べておいた。此処〈ココ〉にそれを繰り返すことは無用であらう。有名な古都ハイデルべルクにその大学を訪れる人々は、この地の美しい風光とともに、こゝに教鞭をとつて深い感化をあたへた偉大なマックス・ウェーバーの思想的業績に、心を寄せるべきであらう。しかしウェーバーは今やハイデルベルクのみのウェーバーではなく、すベて思想に関心をもつ全世界の人々のウェーバーである。彼の偉大さは欧洲においては夙に〈ツトニ〉熟知されてゐるものであつて、我国においても社会科学の研究が深まるとともに、ますます瞭らか〈アキラカ〉にされねばならないと思ふ。わけても本書の論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は彼の代表的な著作であり、彼の思想を知るには最も適当した書物である。我国の思想界においても、その内容の大体はすでに一般に知られてゐるのであるが、原文が比較的読み難いこと、ウェーバーの論文集がかなり高価なこと等の事情のために、直接これについて研究することは、必ずしも容易ではなかつた。それは我国の読者にとつては遺憾なことであつた。私の拙い〈ツタナイ〉飜訳と解説とが、些し〈スコシ〉でもこの国の思想界に貢献し得るならば、私の光栄は之に過ぎるものはない。
 ウェーバーのこの論文は本書序説にも説明したやうに、近代資本主義の精神の重要な起源の一つが基督新教【プロテスタンテイズム】殊にカルヴィニズムにあることを論証しようとしたものである。それは学界のみではなく、思想界一般に深い影響と反響とを生んだのであつて、このウェーバーの論文が発表されてのち間もなく、これに賛成する立場とともに、多くの反駁論文も亦現はれ、活潑な論争のテーマとなつて今日に及んでゐる。さうした批判説のうち重要なものに就いては、本書序説に説明したのであるが、かゝる多くの批判説の中には、ウェーバーの主張に対する誤解から生じたものも少くないことは確実であると思ふ。実際この論文は、量においては左程大きいものではないけれども、それだけに著者のさまざまの思想が圧縮され、或ひは単に暗示されてゐる箇所が少くないのである。それを正しく理解するすることは、ウェーバーの尖鋭にして該博な思想を知るためにも必要なことである。さうした意味で、訳者は本書を硏究される人々のために、出来るだけ理解しやすい説明を、序説の中に試みておいた。しかし訳者のウェーバーについての理解は、未だ決して充分ではなく、そのために説明の中にも不充分な点、或ひは誤謬を犯してゐる所さへありはしないかと虞れる〈オソレル〉。それらについては読者の寛恕を乞ふとともに、篤学の人々よりの教示を俟つ次第である。
 ウェーバーのこの論文は、社会科学の方法論についての彼の独自の思想を研究のうちに実現してゐる点においても、重要な意義をもつてゐる。それも本書序説の中に説明を加へておいたがこの点について尚ほ深く研究しようとする人は、本叢書第一巻戸田武雄氏訳「社会科学と価値判断の諸問題」を参照されたい。(そのほか参考書は序説の終りに挙げておいた。)
 本書の飜訳は訳者から多大の労苦を奪つた。昨年の秋その飜訳を決意したときには、その仕事がさまで困難とは思はなかつたのであるが、進むに従つて此の論文の邦訳が、いかに容易でないかを知らねばならなかつた。短い言葉の中に深い思索と該博な知識との織り込まれた原著者の文章は、文法的には左程解し難くないにも拘はらず、これを正確な邦語に移して、しかも邦訳にありがちの難渋さを少しでも避けようとするには、少からぬ努力を必要としたのである。殊に量において原著の半ばを占め、極めて多岐な、且つ含蓄に富んだ脚註は、翻訳にあたつて意外の苦心を必要とした。これらの付註も最初は、その全部を訳出する積りであつたが、あまりに多くの時間をとりすぎるために、遂ひに〈ツイニ〉その一部分を省略して全部の訳出を断念しなければならなかつた。訳者の精力がそれに及ばなかつたのである。が、省略に際しては、訳者の判断により、比較的重要でないと思はれる部分のみに止め〈トドメ〉、殊に本文の飜訳においては一字一句も疎か〈オロソカ〉にしなかつたことは云ふまでもない。従つて付註の一部分の省略は、専門の研究者にとつても左までの不便を伴はないことゝ信ずる。
 この訳書の刊行については、多くの人々から与へられた好意を謝さなければならない。第一には経済学博士本位田祥男〈ホンイデン・ヨシオ〉先生は訳者の一高在学時代以来殆ど十年間を通じての恩師であり、本書の翻訳についても種々指導と配慮とを賜つた。経済史・経済学の学徒としての訳者の経歴は、殆ど凡て〈スベテ〉先生に負ふといつても過言ではない。更に直接この翻訳に援助を与へられたのは法政大学敎授大塚久雄氏である。教授は学問上の後輩たる訳者のために、本書原稿の完成とともに、その全部を一々原文と対照しつゝ、通読され、多数の有益な忠告を与へられたのみではなく、印刷に際しては校正刷にも目を通されたのである。本書が多くの不適訳或ひは誤訳から免れることの出来たのは、専ら教授の好意に負ふものである。更に戸田武雄氏の上掲書が本書より先に現はれたことは、多くの便益を訳者に与へた。そのほか多数の本書以前に現はれた文献が、訳者を啓発したことは勿論である。
 訳者の個人的な点についていへば、本書の飜訳は種々の思ひ出を今後も伴ふであらう。一昨年の秋それに着手したときから、昨年夏一応その原稿が出来上つたときまで、訳者の身辺には種々の変化が起つた。ことにこの間における生活上の窮乏は、訳者に多大の苦痛を与へたものであり、日々の糧〈カテ〉に憂悶したことはしばしばであつた。かうした事情のために、親戚或ひは友人に迷惑を及ぼしたことも多かつた。訳者が交友の術に長じてゐないだけに、友人の好意は尊重すべきものであつた。最後に尚ほ、本書の原稿の整理と清書との、面倒な仕事に当つた訳者の妻の労苦についても一言させて戴きたい。それは極めて労の多く、しかも本書の完成には不可欠の仕事であつた。訳者自身の仕事は単に他国語を移して邦語につくり上げる、いはゞ一種の技術工の仕事にしかすぎないのである。
 昭和十三年三月十四日
       湘南辻堂の茅屋〈ボウオク〉にて 梶 山  力
                      (旧姓 田中)

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