礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

アクセス・歴代ベスト20(2015・8・26現在)

2015-08-26 19:41:29 | コラムと名言

◎アクセス・歴代ベスト20(2015・8・26現在)

 本日は、都合により、このブログのアクセス歴代ベスト20のみ。

1位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
2位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判 
3位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
4位 15年2月26日 『虎の尾を踏む男達』は、敗戦直後に着想された
5位 13年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか     
6位 13年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』 
7位 15年8月6日 「親独派」木戸幸一のナチス・ドイツ論
8位 15年3月1日  呉清源と下中彌三郎
9位 14年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラ     
10位 13年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード     

11位 15年8月9日 映画『ヒトラー』(2004)を観て印象に残ったこと
12位 13年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か   
13位 15年2月20日 原田実氏の『江戸しぐさの正体』を読んで
14位 13年2月27日 覚醒して苦しむ理性       
15位 15年8月3日 ストゥカルト(Stuckart)、ナチスの「憲法原理」を語る
16位 15年8月13日 金子頼久氏評『維新正観』(蜷川新著、批評社)
17位 15年2月27日 エノケンは、義経・弁慶に追いつけたのか 
18位 15年7月2日 井上日召、検事正室に出頭す(1932・3・11)
19位 15年8月12日 明治憲法は立憲主義を謳っていた
20位 15年2月28日 備仲臣道氏評『曼荼羅国神不敬事件の真相』

次 点 15年3月4日  「仏教者の戦争責任」を問い続ける柏木隆法さん

*このブログの人気記事 2015・8・26

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ケルロイターの『ドイツ憲法論』第三版(1938)

2015-08-24 03:45:56 | コラムと名言

◎ケルロイターの『ドイツ憲法論』第三版(1938)


 国立国会図書館で、オットー・ケルロイター著、矢部貞治・田川博三訳『ナチス・ドイツ憲法論』(岩波書店、一九三九)を閲覧した。巻頭にケルロイターによる「日本訳への著者の序」があった。

 東京帝大法学部の矢部貞治助教授、及び目下在ミュンヘンの交換学生田川博三君の手により、余の「ドイツ憲法論」第三版の翻訳がなされたが、余はこの翻訳が、第三帝国の構成を理解する上に、寄与するところあらんことを希望する。【以下略】

 オットー・ケルロイターの署名の前に、「ミュンヘン郊外プーラッハにて、一九三八年八月十三日」という日付と、「ミュンヘン大学教授、ドイツ法学院会員/法学博士」という肩書がある。
 そのあとに、訳者のひとり、矢部貞治による「訳者序」がある。

 ケルロイター教授の「ドイツ憲法論」の邦訳を企て、教授及び原出版者の諒解を得て、それを実行したのは、現にミュンヘンに留学中の日独交換学生、東京帝国大学法学部学生の田川博三君である。【以下略】

 矢部貞治の署名の前に、「昭和十四年二月二十八日/東京帝国大学法学研究室にて」とある。
 これらによってわかるように、『ナチス・ドイツ憲法論』の原著のタイトルは、『ドイツ憲法論』であって、「ナチス」は、翻訳にあたって付されたものであった。
 なお、ケルロイターのいう「ドイツ憲法論」第三版とは、国立国会図書館にある、次の本のことであろう。

Deutsches Verfassungsrecht ; ein Grundriss von Otto Koellreutter.
3. durchgesehene und ergänzte Aufl.
Berlin : Junker und Dünnhaupt, 1938.

 たしかに、「ナチス」という言葉は付いていない。
 断定は避けるが、「ナチス・ドイツ憲法」という言葉のルーツは、『ナチス・ドイツ憲法論』という翻訳書であることは、ほぼ間違いない。したがって、「ナチス憲法」という用語のルーツもまた、この翻訳書であると考えている。そして、訳者らが、ケルロイターの『ドイツ憲法論』を翻訳・刊行するにあたって、これに『ナチス・ドイツ憲法論』というタイトルを付けたのは、版元の岩波書店から要望に応じたものであろう。

 今どき、こうした事情に通じている人は、ほとんどいないだろう。こんなことをセンサクしている者も、皆無に近いと思う。一応、情報プラス仮説として提示しておきたい。

*都合により、明日から数日間、ブログをお休みします。

*このブログの人気記事 2015・8・24(8位にやや珍しいものがはいっています)

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「ナチス憲法」という用語のルーツ

2015-08-23 03:52:15 | コラムと名言

◎「ナチス憲法」という用語のルーツ

 昨日の続きである。戦前・戦中の日本には、「ナチス憲法」という用語を使用している憲法学者がいた。ハッキリしているのは、当時、明治大学教授・法学博士であった大谷美隆〈オオタニ・ヨシタカ〉である。この人は、一九四一年(昭和一六)年に出た日本国家科学体系第六巻『法律学(二)』(実業之日本社、一九四一)に、「ナチス憲法の特質」という論文を寄せている。この論文については、すでに今月の一七日、一八日、当ブログにおいて、内容の一部を紹介した。
 ところが、大谷教授は、その論文において、「ナチス・ドイツ憲法」という用語も併用している。このことから、「ナチス憲法」というのは、「ナチス・ドイツ憲法」の略称ではないかという推定が成り立つ。
 さて、「ナチス・ドイツ憲法」という用語だが、これならば、他にも使用例がある。まず、一九三九年(昭和一四)に出た、オットー・ケルロイター著、矢部貞治・田川博三訳『ナチス・ドイツ憲法論』(岩波書店)、そして、一九四一年(昭和一六)に出た、大石義雄著『ナチス・ドイツ憲法論』(白揚社)である。
 それ以前の一九三八年(昭和一三)に、土橋友四郎著『ナチス独逸国の修正憲法』(錦松堂書店)という本も出ているが、とりあえずこれは、除外しておこう。
 そうすると、「ナチス・ドイツ憲法」という用語の最も古い例は、オットー・ケルロイター著『ナチス・ドイツ憲法論』であり、ここで使われはじめた「ナチス・ドイツ憲法」という用語が、大谷美隆教授によって、「ナチス憲法」と略称されたということになる。なお、大谷美隆教授以外の法学者が、「ナチス憲法」という略称を用いていたか否か、この略称が、どの程度、普及していたのかについては、今のところ、ハッキリしない。
 いずれにせよ、「ナチス憲法」という用語のルーツは、オットー・ケルロイター著、矢部貞治・田川博三訳『ナチス・ドイツ憲法論』(岩波書店)にありそうだという推定が、一応、成り立つわけである。
 そこで、続いて検討しなければならない問題は、オットー・ケルロイター自身が、「ナチス・ドイツ憲法」という用語を使用していたか否か、ということになる。【この話、さらに続く】

*このブログの人気記事 2015・8・23(7位に珍しいものがはいっています)

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私は自分に腹を立てています(半藤一利)

2015-08-22 05:56:11 | コラムと名言

◎私は自分に腹を立てています(半藤一利)

 発売されたばかりの『サンデー毎日』八月二三日号で、半藤一利〈ハンドウ・カズトシ〉、保阪正康、青木理〈オサム〉の三氏による鼎談の記録を読んだ。半藤一利、保阪正康の両氏は、これまで、比較的、穏健な論調で知られてきたが、最近はかなり発言が過激になっている。この鼎談においても、保阪氏は、次のように言う。

保阪 僕は75歳になり、がんを二つも患ったし、一期〈イチゴ〉とはこんなものだろうと達感しかけていた。でも安倍政権が本性〈ホンショウ〉を現すにつれ、何としてでも生き延びて、この政権を倒さなければいけないと思い始めました。そうでなければ、昭和史を検証してきた意味がない。

 一方、半藤氏も、こう言う。

半藤 安倍さんは「岸〔信介〕がやったことが正しい。今にも歴史が証明する」なんて言うが、実際には安保一つとっても歴史を学んでいないし、未来を見通せてもいない。今、軍事大国として限界にきている米国に対し、さらに従属することにどんな意味があるのか。

 両氏とも、明確に「反安倍」の立場を打ち出している。しかも表現が、かなり過激である。
 この鼎談で半藤氏は、二年前に麻生太郎氏がおこなった「ナチス憲法」発言にも言及している。これについて、「おっちょこちょいな麻生さんが口を滑らせたにすぎない、その程度に高を括っていたのですが、あの時、事の深刻さに気づくべきでした」という感想を述べている。
 つまり、半藤氏は、二年前の麻生発言の時点では、「事の深刻さ」に気づいていなかったのである。確認したわけではないが、氏が、「反安倍」の立場を表明するようになったのは、ごく最近、たぶん、本年にはいってからではないのか。
 ところで、二年前の麻生発言について、半藤氏がおこなっているコメントには、若干、誤解があるようなので、これを指摘しておきたい。まず、半藤氏の発言を引用する。

半藤 私は自分に腹を立てています。こんな日本になることに、一昨年の夏、私は気づいていなかった。麻生(太郎=財務相)さんが「ナチス・ドイツはいつの間にかワイマール憲法をナチス憲法に変えた。あの手口を真似たらどうかね」と放言した。新聞をはじめメディアは、「歴史を知らないにもほどがある。ナチス憲法など存在しない。ワイマール憲法は改正も破棄もされておらず、ナチス政権に無制限の立法権を与える全権委任法を強引に可決したのだ」と批判はしました。
 麻生さんの勉強不足が露呈したわけですが、批判には冷やかしのトーンがあった。【以下略】

 半藤さんは、当時のメディアがおこなった「批判」を紹介しているわけだが、その部分に事実誤認がある。「ナチス憲法など存在しない」というが、戦前・戦中の日本では、ナチス・ドイツにおける憲法状況を指して、「ナチス憲法」と呼んでいた学者もいた。もし、このことを麻生氏が知っていたのだとすれば、「歴史を知らないにもほどがある」という批判は、適切でない。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2015・8・22(8位に珍しいものがはいっています)

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東条英機とゲーリング(佐藤忠男『裸の日本人』より)

2015-08-21 03:58:27 | コラムと名言

◎東条英機とゲーリング(佐藤忠男『裸の日本人』より)

 先月なくなられた哲学者の鶴見俊輔さんは、評論家の佐藤忠男さんを高く評価していた。佐藤さんが、まだ「無名」だったころ、雑誌『思想の科学』に投稿した「任侠について」という論文(一九五四年八月号に掲載)を激賞し、佐藤さんが文筆家となるキッカケを与えたのは、鶴見さんである。
 鶴見さんを偲び、『戦時期日本の精神史』(岩波書店、一九八二)を再読していたところ、その二四五ページにある注に、佐藤忠男さんの名前があるのを見つけた。「忠臣蔵」とのカラミで、佐藤さんの著書『裸の日本人』(カッパブックス、一九五八)に触れている。「一つの壮挙だった」と、この本を誉めている。
 この本は、たしか高校時代に読んだことがある。ほとんど内容を覚えていないのは、よく理解できなかったからだろう。もう一度、読みたくなって、図書館で閲覧した。
 初めのほうに、「引かれ者の小唄――東条英機とゲーリング」という一文があった。懐かしい。たしかに昔、読んだ文章である。改めて「名文」だと思った。本日は、これを紹介させていただこう(三六~三九ページ)。

 引かれ者の小唄――東条英機とゲーリング
 あの夏復員して家に帰ってからすぐ、小学校時代の同級生たちの有志の間で、かつて自分たとの担任だったK先生が、汽車で二時間ほど離れた町の学校へ転校して戦災にあい、困ってその学校の宿直室に寝とまりしているそうだから、みんなで同級生たちから見舞品を集めて持っていってやろうではないか、という話がもちあがった。そして私は、まだ暑い日、三人の友だちとリュックに見舞品をつめてかついでいった。
 遠い田舎の学校の裏庭で畑仕事をしていたK先生は、二年会わぬうちに、十も年をとったような、しょぼしょぼした姿で私たちの前に現われて、「やあ、よく来てくれましたねえ。」と、私たちをはじめて一人前の大人扱いするような、ひどく丁寧なあいさつをしてくれて、「みなさん、ほんとうにありがとう。では遠慮なくいただきます。」と、ずいぶん、よそよそしい感じの言葉でその品々を手にとった。
 その日私は、このK先生が、かつて私に、「日本に生まれた幸福は何か、という質問で、万世一系の天皇をいただいるからです、という返答がすぐ出ないような不忠者は、上級学校受験の資格なんぞない!」という、私の小学校時代を通じてもっとも深く自尊心を傷つけられる言葉を浴びせた人なんだ、ということを心に激しくシコリとして持っていたのである。それで、〈あの先生、今はどんな顔をすることか〉と、ひそかに期待して行ったのである。が、そう叱ったときの威厳などみじんもない、すっかり意気消沈してしまったような、このときの先生の様子をしげしげと見まもると、私は、なんだか急に、ひどく味気ない、ゆううつな気分につつまれてしまった。
 それは、戦後はじめて、天皇がマッカーサーを訪問して(〝伺候して〟と言うべきか)、尊大な大男のマッカーサーと、ネコ背でしょんぼりした天皇とが、並んでとった写真が新聞に発表されたときにも感じた気分である。そしてまた、戦争中にはひどく頼もしそうに思えた東条英機以下のA級戦犯の面々が、いざ極東軍事裁判の法廷に引き出されてみると、みんなおっそろしく神妙で、旦那に小言を言われている番頭といった程度の風格しかない、という、まことに味気ない発見をしたときにも感じたものだった。
「だまされた、だまされた。」と言うが、考えてみると、「おれこそおまえらをだました張本人だ。」という、でかいつらをしたやつは、日本には一人もいなかった。気がついてみたら、直接私をだましたはずの先生も、先生をだましたはずの東条以下の面々も、最高責任者であるはずだった天皇も、みんないちように、なにか、とんでもない巧妙な詐欺にでもひっかかったようにキョトンとしていて、あわれでみすぼらしく、まるで手ごたえも何もないのだった。
 ニュルンベルグで行われた、ナチス戦犯のニュース映像を見ると、連合国側の鋭い追求を受けながら、ゲーリングなんかが、じつにふてぶてしい悪魔のような顔で笑っている。〝引かれ者の小唄〟と言えばそれまでだが、そこにはたしかに、「ヨーロッパを地獄のどん底に落としてみせたのはこのおれさまだ。」という、不遜な居直り方をする人間の姿がある。
 ところが、日本のばあい、「おれがこの戦争の責任者だ。」とはだれも言わない。だれかれもが、みんな、「自分は上の者の命令にしたがったまでだ。」と言う。A級戦犯たちまでが、「自分は国家の方針に忠実であったにすぎない。」という顔をし、その国家のいちばんてっぺんにいる天皇は、要するに名前だけしかない〝象徴〟なのであって、具体的に命令をくだす〝責任者〟ではなかったのだそうな。
 これはべつに、罪を軽くしてもらうために神妙なふりをしているわけではない、と私には思われた。たとえば、自分のばあいはどうだろうか。「不忠者!」と言われたとき、目の前がまっくらになるような感じにおそわれた。それはまるで、自分一人だけ、この世界から切りはなされてしまったような心細さだった。
 その心細さに恐れおののいて、私は、自分が〝よい子〟であることを立証するために、みずから進んで死にものぐるいの努力をしたのである。つまり私は、〈自分は国家という大きな権威の一端につながっている人間である〉という確信がないときには、平静な気持ではいられない、という心理的な構造をもつ人間であったのだ。
 そしてその点では、あのK先生だって、さらには東条以下の面々だって同じことだったのではなかったか。つまりみんな、心理的には、国家という巨大な権威に従順で、その権威をできるだけたくさん身にまとっておきたいと、一生けんめい力んでいたにすぎないのではなかったのか。その権威がどこかへすっとんでしまって、自分の生き方をささえるものが何もなくなってしまって、彼らもすっかり意気消沈してしまったのだ。
 あのころはやった〝虚脱〟という言葉の意味がようやく分かってきた。

 この文章に、伊丹万作や丸山眞男からの影響を指摘するのは、難しいことではない。ここで重要なのは、佐藤忠男さんが、担任だった「K先生」のエピソードから、はいっていることである。ここに、この文章の「説得力」があるのだと思う。また、「テン」の打ち方が絶妙である。おそらく、こういったところが、佐藤さんの文章術の秘密なのだろう。

*このブログの人気記事 2015・5・21

 

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