礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治憲法は立憲主義を謳っていた

2015-08-12 02:55:21 | コラムと名言

◎明治憲法は立憲主義を謳っていた

 昨日の毎日新聞一面コラム「余録」のテーマは、「明治憲法と立憲主義」であった。読んでいて、やや気になる点があったので、指摘しておきたい。
 このコラムは、全部で六つの段落からなっているが、気になるのは、第三段落から第五段落である。
 最初の段落では、ドイツの憲法学者・グナイストが、憲法調査のため、ドイツに留学していた伊藤博文に対し、「日本が憲法を作っても銅器に金メッキしたものに過ぎないだろう」と冷笑した話が紹介されている。
 続く第二段落で記者は、このエピソードを、千葉佐倉の国立歴史民俗館で開かれている企画展で知ったと述べている。さて、問題の第三~第五段落だが、まずこれをそのまま引用してみる。

▲それでも伊藤は意欲を失わなかった。枢密院の審議で「臣民の権利」を明記することに反対する意見が出ると、「憲法を創設するの精神は第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」と反論したという
▲もっとも明治憲法は強大な天皇大権を定め、国民の権利は限定的にしか認めなかった。憲法で国家権力を抑制し、国民の権利を守るという立憲主義は不十分なものだった。結局軍部の台頭を許し、悲惨な敗戦を招いた
▲その反省の上に立つ新憲法は権力者に対して憲法に従う義務を課すとともに、国民の基本的人権を保障した。明治憲法ではなしえなかった立憲主義の本来の姿であろう

 一番気になるのは、第四段落の「憲法で国家権力を抑制し、国民の権利を守るという立憲主義は不十分なものだった」という部分である。明治憲法における立憲主義そのものが「金メッキ」でしかなかったかのように読める。しかし、明治憲法は、明確に立憲主義を謳った憲法であった。立憲主義を定めた文言が、厳然として存在していた。それはどこにあるのか。「上諭」の一部である。

 国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ〈したがい〉之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ〈あやまらざるべし〉
 朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ共有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス

 ここでは、天皇が憲法の条規に従うと宣言しており、また臣民の権利・財産・安全を尊重し保護するとも言っている。明治憲法が、明確に立憲主義に基づいた憲法であった。このことは、伊藤博文著とされる(実際は、井上毅〈コワシ〉の執筆か)『憲法義解〈ギゲ〉』を引くまでもない。
 また、第五段落の「明治憲法ではなしえなかった立憲主義」という表現も気になる。明治憲法は、明治中期に制定されて以来、昭和前期に天皇機関説事件が起きるまでは、ほぼ立憲主義的に運用されていたと見るべきである。
 たしかに、明治憲法は、強大な天皇大権を定めており、国民の権利は限定的にしか認めていなかったかもしれない。軍部の台頭を許し、悲惨な敗戦を招くことになったのも、明治憲法に原因があったのかもしれない。しかしそれらを、明治憲法のせい「だけ」にしてはならない。そのことよりは、昭和前期に明治憲法を、「非立憲的」に運用しようとする勢力が台頭し、その勢力を多くの国民が支持したことを、むしろ問題にすべきなのである。
 明治憲法の「上諭」の原案(ドイツ文)を起草したのは、来日中のドイツ人法律顧問・ロエスレルであった。憲法の起草にあたった伊藤博文や井上毅は、ロエスレルの見識を非常に高く評価していたという。ちなみに、昭和前期、天皇機関説に立つ美濃部達吉博士を攻撃し、明治憲法を「非立憲的」に運用しようとする勢力の背後で、有力なブレーンとしてこれを支えていたのは、明治憲法の起草者四人のうちのひとり、金子堅太郎であったという。

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コメント (1)
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