礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

源義経、石巻の渡しで舟子に鎧の片袖を与える

2018-10-22 03:05:15 | コラムと名言

◎源義経、石巻の渡しで舟子に鎧の片袖を与える

 中山太郎の論文「袖モギさん」(『郷土趣味』第四巻第二号、一九二三年二月)を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 さて、是等のコホロギ橋の伝説に就いて注意すべきことは、橋の上で転倒する者は不具になるとか、或は死ぬとか云ふ凶事の伴ふと云ふ点である。我国には或る場所で転ぶと凶事が来ると云ふ俗信は、かなり古くから行はれてゐるし、又た現に行はれつゝあるが(註四)。これから推すとコホロギ橋はコロビの転訛であつて、その原始的の俗信は柏崎や小浜のそれの如く、此の上で転ぶことを忌んだ為に起つた名であると信じたい。若しさうだとすれば何が故に或る定められた橋の上で転ぶと凶事が起るか、此の問題は中々奥行の深い問題であつて、これが研究は曽て柳田國男先生が記述された『橋姫物語』の結論に到着するのである(註五)、
 私の此の小篇の目的は袖モギさんの正体を突留めるのにあつて、その話の糸口をコホロギ橋に覓めたゞけであるから、橋の方は此の位で打ち切るとして、愈々本問題の袖モギさんに移るとする。
 コホロギ橋と全く同じ思想に属するものがこゝに云ふ袖モギさんである。例によつて各地の資料を挙げ、それから結論に入るとしやう。羽後国由利郡象瀉町、の蚶満神社は古く袖裂神社と云ふたとある、(帝国地名辞典)。私の友人中村木公氏の著『象瀉誌』に引用した蚶満明神記には『自寺門又行小路而有短橋、建叢洞、称袖崎神祠、盖古昔称蚶満明神者是也』とあつて、袖裂とは明記してないが、崎が裂の仮字であることは他の傍証から証明することが出来る。同誌所載の羽州象瀉皇后山干満珠寺記の一節に、神功皇后が征韓の帰途この地に着御あり(註六)。袖をとつて松に懸けたと云ふので袖懸松があり、今に袖掛堂が存してゐると記してある(原漢文取意)。此の記事によれば袖崎と云ふ地名は、各地にある袖ヶ崎または袖の浦と云ふが如き、その地形が袖に似てゐる為に負ふた単純なる名称ではなくして、古く此の地に袖裂―即ち袖モギさんが祀られてゐた為と見るのが穏当であらう。陸前牡鹿郡石巻町の住吉神社々東の地は、昔は真野迫間両川の合流地点であつて、湊、稲井への渡船場である。口碑によると源義経が関東へ赴く際に、此の渡しで鎧の片袖を舟子に与へ労に報ゐたので、今に袖の渡しと云ふてゐる(増訂石巻案内)。これなども明白に俗信の為に袖をモギとつたとは記してないが、然し舟子に報ゐるのに鎧の袖を以てするとは、如何にしても常識では解釈出来ぬので、同じく古くは袖モギの俗信があつたのが何時か世人から忘られて義経に附会され伝記化されたものと見ることが出来る。安房館山町大字柏崎に国司神社とて源親元を祀つた祠がある。これは享保年中に房州の刺史たりし親元が任満ちて帰洛せんとて、同所より船に乗ると国民離別を悲むので親元直垂の片袖を裂き与へたのでそれを祀つたのだと云ふてゐる(房総雑記)此の話なども又た前の例の同じ流れから出てゐるものと考へられる。北伊豆地方では葬式の供に行つて転ぶと、着物の袖をとるとて非常に注意するさうだが(郷土研究二ノ十一)。此の報告は袖をとるのが災厄を免がるゝ為か否かゞ判明せぬので、少しく物足らぬ心地がする。それにしても葬儀と関係ある点は袖モギさんの原始信仰を暗示するものであつて、又た以て読者の記憶にとめて置いてもらはねばならぬ点である。上野国多野郡吉井町大字長根の常行院(天台宗)に袂観音と云ふがある。縁起によると信州伊奈の伊藤長者の娘が十七歳で尼になるとて家を出て此処まで来たのを、追手の者が追て縋り袂を捕へて帰宅をすゝめたのを娘はその袂をモギリ堂内に入り素懐を遂げたので、それより袂観音と称したとある(上野国誌)。尾張名古屋市の小袖塚の由来は聴いたゞけでも哀れを催す物語である。伝説によれば京都から流謫された藤原帥長の寵愛を受けた横江氏の娘が、罪を許されて都に帰へる帥長との別れを惜み、帥長が形身にと与へた琵琶を抱き、小袖の袖を松に褂けて入水したので、その屍体を葬つたところを斯く名づけたのであると云ふことだ(尾張誌其地)。此の塚なども明白に袖モギさんとは記述してないが、同じ系統に属する俗信の伝説化されたものと見ても差支ないやうである。まだ此の外に佐渡の袖ヶ沢の由来や(佐渡俚謡集)。摂津西ノ宮町の袖掛松の故事や(摂津大観)、備後尾ノ道市の御袖の御影と称する天満宮の縁起なども(芸藩通誌巻卅三)。詮索したら咸な袖モギさんの系統に属すると信ずべき節がある。然しながらそんな物の縁ばかり歩くやうな廻りくどい材料ばかり挙げてゐたのでは、記事が一向に捗どらぬので、今度は正真の袖モギさんを並べるとしやう。【以下、次回】

註四。転ぶと死ぬと云ふ場所は、多くは各地とも墓地に限られてゐるが、これも袖モギ信仰の一派生であることは勿論である。
註五。柳田國男先生の「橋姫物語」は大正七年壱月号の『女学世界』に掲載してある。御参照を望んでやまぬ。
註六。奥州象瀉地方には不思議にも神功皇后に関する伝説がある。これは私も一度郷土研究誌上にも発表したことがあるので、篤学のお方は併せ読んでもらひたい。

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