礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

死刑執行人はムシウ・ド・パリと呼ばる

2018-10-16 05:30:52 | コラムと名言

◎死刑執行人はムシウ・ド・パリと呼ばる

『犯罪科学』第二巻第二号(一九三一年二月)から、浜尾四郎の「ギヨチーヌ綺談」という記事を紹介している。本日は、その三回目で、同記事の第三節の前半を紹介する。

  三、執行する人々
 ドクトル・ギヨチーヌは、人が首切りをせず、機械が首を切るべしといつて提議した事はさきに記した通りだけれ共【ども】、いかに機械が首切りをすると云つてもそれは自働的に動くわけでなく誰かボタンを押さねばならぬ。そこで結局、この人が直接死刑囚に手を下す事になるのだが、この職業は余りいゝものではなさゝうだ。
 我国には今以て検事や警官になるのをいやがる人々が居るやうだけれ共、フランスだつて首切役人といふ商売は余りはやつたものではないらしい。詳しい事は判らないが丁度我国の山田浅右衛門のやうに、代々伝【つたは】つて行く所謂一子相伝の職業らしく、而も上手下手【じやうずへた】がはつきりあるらしい。
 パリの警視総監アルフレツド・モーランが執行人銘々伝を書いてゐるからそのまゝここに紹介しやう。
『死刑執行人は一般にムシウ・ド・パリ〔Monsieur de Paris〕と呼ばる。此のニツクネームたるやフランスの首府にたゞ一人の執行人あるのみなるを意味す。現代に於いては然るも、過去にありては必ずしも然らず。各刑務所に一人づつの執行人をおきたるなり。
 Heindreich彼は一八七二年、七十才の高齢にして没したるが病に仆【たふ】るゝまで執行人の職にありき。彼は実に十六敵の少年時代にその父(やはり死刑執行人)の助手となり其後【そののち】この職をつぎて四十四年に及びぬ。余〔モーラン〕は個人的に彼とは相識【そうしき】の仲にはあらざりしも、わが幼時に彼がトロツプマン〔Jean-Baptiste Troppmann〕をギヨチーヌにかけたるを見たる事あり。余は今なほ彼〔Heindreich〕の性格の特異なるものありしを人にきかされしを想起する。彼は丈【せい】高く、落着きむしろ冷く見えたり。執行を終【をは】るや直に教会に行きて、死者の為に彌撤【みさ】を用意し、事終りて帰宅し直に入浴するを常としたり。
 Roch ハインドライヒの死するや直にその職をつぎたるはその助手たりしロシスなり。彼はかつて執行を終りし夕べ、人に問はれて平然と、Tout s'est passé a ravir.(ゆかいに運びぬ)と答へたりき。一八七九年に死しその助手に職を残せり。
 Deiblen 一八七九年ロシスのあとをつぎたる人。而して現在同名の執行人は実に彼が一子たり。彼がその職に就きし時は既に六十歳の老年に達し居たり。外貌極めておだやかにして教養あれ共【ども】内【うち】おかし難き根強さと強気【きやうき】を蔵す。彼がこの強気はその就職第一の執行の時あらはれたり。
 アヂヤンに於いて彼ははじめて執行人として手を下したりしが時の死刑囚はラブラードと呼ばるゝ血気盛【さか】りの男子なりき。ギヨチーヌに達するや、死物狂ひになりて狂ひまわり容易に板の上に身体【からだ】を横【よこた】へず、Deiblen これを見て憤激し、ラブラードの咽喉首【のどくび】をつかみ、床に叩きつける事、数回に及びぬ。【以下、次回】

 文章は、途中から、パリの警視総監アルフレツド・モーランの「執行人銘々伝」の引用となる。ここで、モーランは、トロップマンの処刑を目撃したと述べているが、この処刑が行われたのは、一八七〇年一月一九日(明治二年一二月一八日)のことであった。

*このブログの人気記事 2018・10・16(9位の平田篤胤は久しぶり)

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