礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中里介山氏から都新聞二葉を恵まれた

2018-10-23 04:24:46 | コラムと名言

◎中里介山氏から都新聞二葉を恵まれた

 中山太郎の論文「袖モギさん」(『郷土趣味』第四巻第二号、一九二三年二月)を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 甲斐国西八代郡上野村の路傍にキコフ神と云ふが祭つてある。聾の人が縄で磁器を貫き社前に懸けて治聾を祈るので、そこを『皿つるし』とも云ふゐる(註七)。此の坂で往来の者が転ぶときは、衣の片袖を截り此の神に捧ぐるを旧例とする(甲斐叢記四)。友人の中里介山氏の書かれた『大菩薩峠』は馬琴の八犬伝よりも更に長篇物で、恐らく我国の稗史小説中の第一位を占むべきものだと云ふことである。その中に甲州の袖切坂の事を書いたから、袖モギさんを研究してゐる私に送るとて袖切坂の挿絵のある都新聞二葉を恵まれたが、その新聞を何処へ蔵へ込んでしまつたか発見せぬので、此の袖切坂が甲斐叢記にある袖モギさんと同じものか否か、それすらも何とも言ふことが出来ぬが、いづれ見つけ次第に追補するとしやう。摂津国川辺郡小浜村大字安倉に大将軍と名づけた地域がある。昔この辺で往来する者が躓くときは片袖を放ち棄てることになつてゐた。若し棄てないと必らず死すと信じ、これは八将神の咎めだと云ふことであつた(摂陽群談巻十七)。大和国吉野郡白銀村大字西舞子にも袖モギと云ふ所がある。其処は坂にてその横に池あり別に祠なし。然し其処で躓き倒るれば片袖とりて置かねばならぬと言ひ伝ふ(郷土研究二ノ十一)。越中国下新川郡小摺戶村大字袖沢へ、大昔立山権現なる人が来て一宿せる際に、御影石の美麗なるを鳥の子石と名づけ、大なる柚の木の幹の股に置いた。その後親鸞上人が此処を過ぎり此の石に衣を掛けたので衣掛石とて、今に尚ほ石に衣の跡があると云ふ(下新川郡史稿)。此の話なども権現だの親鸞だのと有難味をつけるために人間離れがしてゐるけれども、袖沢と云ふ地名から推すも袖モギの俗信から派生した伝説であることが会得される。伊勢の豊受神宮四十末社の条に下部坂に袖引石と云ふがある。人の踏まぬ石だと簡単な記事が載せてあるが(西国名所図会巻一)。此の石なども袖引石の名から見て袖モギさんであることが窺はれる。播磨国明石郡伊川村大字前開の太山寺の仁王門の近くに苦集滅道と云ふ坂がある。俚伝に此の坂で転ぶと命が短くなるとて忌み、若し転んだときには其の禍から免かれる為に片袖を裂つて其処に棄てゝ身代りとする習慣がある。誰のとも分らぬ片袖が此の坂に棄てゝあるので別名を誰が袖坂と称してゐる(播州名所巡覧図会巻二)。此の苦集滅道で想ひ出すのは京都東山清水寺の南方にある苦集滅道及び産寧坂の由来である。足利時代に著された下学集によれば、三井寺の開山教待上人が此の地を通つた折に、木履の音が苦集滅道と響いたので斯く称したとあるが、これは保元物語に久々目路とある地名に附会した説であることは言ふまてもない。然しながら久々目路の語原は今に判明せぬ。私は苦集滅道の詮索よりは産寧坂は即ち三年坂であつて、此の坂で転ぶと三年の間に死ぬと云ふ俗信があつたのを、仏徒が無苦集滅道の方便を説いたのが此の地名の起りでめると同時に、三年坂を産寧坂と文字を改め、遂に子安堂まで設置するやうになつたのであらうと考へてゐる。従つて清水の三年坂には袖をキルと云ふ土俗までが伴つてゐたか否か、それは私としても何とも言ふことは出来ぬが、同じ袖モギ思想の範疇に属するものだと云ふことだけは断言出来ると信じてゐる。【以下、次回】

註七。皿つるしの俗信は可なり古くから、そして可なり広く行はれてゐるやうである。考古学雑誌に後藤守一氏が秋田地方で発見した土器に就いて記したものゝうちに、此の種のことが見えてゐる。同じく参照されたい。

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