礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

見るまに首は切断され、ほうろうのバケツに

2024-09-02 04:15:35 | コラムと名言
◎見るまに首は切断され、ほうろうのバケツに

 正木ひろし『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)に拠りながら、いわゆる「首なし事件」について紹介している。
 本日は、その五回目。同書の第2章「こっそり首を切り取る」の第1節「長い年月のような十二時間」の前半を引用する。

  〈1〉 長い年月のような十二時間
安宅の関に向かう弁慶のように
 東大解剖学教室専属の職員N氏は、約束の午前八時まえに、上野駅に現われました。年のころは四十七、八歳、労働者ふうの好人物らしい感じの人でした。本件の内容も知らず、行く先も知らず、また、大学の用件で行くのかどうか、それすらもよく知らないようすでした。
 そうでなければならなかったのです。もし実情を知ったら、それが顔や挙動に現われ、他人にわかってしまうおそれがあります。また万一、とちゅうで警察官につかまったばあい、知っていれば共犯になります。N氏のこの日の仕事は、ただ機械的に動けばよかった丹です。
 佐藤勝子とわたしとは、よく打ち合わせ、列車の中でも、たがいに席を遠くにとりました。わたしは、窓ぎわにN氏と向かい合って席をとり、N氏と第三者とが口をきかないように用心しました。さいわいN氏は、つりが唯一の道楽で、休日には、あちこちにつりに行っていることがわかり、わたしはつりの話を、同氏からつぎつぎに引き出しました。ことに、ふなの種類・つり方・つりざお・つり場・大漁の話などは、はじめて聞く話なのでとてもおもしろく、約二時間が案外らくに過ぎて、汽車はぶじ水戸駅に着きました。
 駅に降り立ったわたしは、これから首を切り取って、ぶじに東京にもどるまで、安宅の関の弁慶のような役割を演じなければならないことを、あらためて自覚しました。

敵方の客にまぎれこんで 【略】

見るまに首はバケツの中へ
 旅館の一室にはいったわたしは、大急ぎで花札賭博で拷問を受けた男ふたりを旅館に呼び寄せました。倉橋炭鉱事務所が、仮処分のことでざわざわし、村の人たちもそっちに気をとられているあいだに、こちらでは墓場へ行って、首を切ってしまわなければならない――というのが、わたしのねらいでした。
 わたしはふたりの坑夫に、表通りを歩かないように、畑や林の中を通って蒼泉寺に行き、手早く土を掘って棺のふたをあけておくように命じました。そして、すこしおくれて、わたしとN氏とはゆっくりと歩き、ときどき、見当ちがいのほうを指さしたりして、人目をごまかしながら、墓場の裏に出ました。
先発のふたりは、すでに土をどけて、棺のふたをあけて、待っていました。
 わたしと坑夫のひとりとは、すこし離れた位置で、なにか立ち話でもしているようなかっこうで見張りをしていました。
 N氏は、いつのまにか解剖室で着る白衣をまとい、長いゴム手袋をはめて、しゃがんでメスを入れたり、のこぎりで切ったりしていました。そして、見るまに、首は胴体から切断され、持参の解剖室用のほうろうのバケツに入れられました。〈64~67ページ〉

 N氏は、東京帝国大学解剖学教室の職員で、実名は不詳。同教室の西成甫教授の紹介により、正木ひろしの計画に協力してくれることになった。映画では、「中原(東京大学雇員)」として登場する。この中原を演じているのが、大久保正信(1922~1987)である。
 三人が上野駅で待ち合わせたのは、1944年2月1日のことであった。三人が乗った列車は、8時15分上野発の仙台行の227列車だったと思う。この列車が水戸駅に着くのは、11時10分。同駅前からタクシーに乗って、長倉村の今出屋旅館に行き、そこで打合せをおこなったあと、ただちに蒼泉寺の墓地に向かう。かなりの強行軍である。

*このブログの人気記事 2024・9・2(10位のカタキウチは久しぶり、8・9位に極めて珍しいものが)
  • 首だけ持ってくればいいじゃないか(西成甫教授)
  • 頭蓋骨の内部は、血液が一杯つまっていていた
  • 映画『首』に登場するバスは代用燃料車
  • 「首なし事件」とは、どういう事件か
  • 事件の舞台は、那珂郡長倉村の蒼泉寺
  • 昭和二十年初夏、一丈余りの条虫が出た
  • 近衛公は、はやまったことをされた(吉田茂)
  • 「国民古典全書」は第一巻しか出なかった
  • 私はもっぱら沈黙を守り続けた(石橋恒喜)
  • カタキウチは健康でないと仕遂げられない



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