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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中山太郎の論文「袖モギさん」(1923)

2018-10-21 08:24:30 | コラムと名言

◎中山太郎の論文「袖モギさん」(1923)

 土俗学者の中山太郎に「コホロギ橋と袖モギさん」という論文がある。私は、一九八〇年代に、『土俗私考』(坂本書店出版部、一九二六)でこれを読み、非常に刺激を受けた。その後、その論文の初出が、『郷土趣味』第四巻第二号(一九二三年二月)に載った「袖モギさん」であることを知ったが、これまで、その初出に当ったことはなかった。先日、国立国会図書館に赴いて、その初出に当り、コピーもとってきた。本日は、これを紹介してみよう。

 郷 土 趣 味 第四巻第二号 (大正十二年二月号)
 
  袖 モ ギ さ ん   中 山 太 郎

 江戸名所図会(巻一)を見ると麹町元飯田町の東の入堀である菰ヶ淵の小溝にコホロギ橋と云ふ石橋の在つたことが記してある。記事が簡単なので橋の由来などは少しも知るこごが出来ぬが、恐らく齋藤月岑が本書を編纂した化政度の交には、纔に橋の名だけが残つてゐたゞけで、その由来などは疾くも世間から忘られてゐだのであらう。それから時代がずつと降つた明治二十三年に出版された東京地理沿革誌には此の橋の事を記して「飯田町十二丁目と神田今川小路との間に渠水あり。飯田と称し又た真菰ヶ淵と呼ぶ。此処九段へ上る通に橋あり俎橋と名く、昔は魚板橋とも書けり。是より北を堀留と云ふ。又その北詰に小石橋を架くコホロギ橋と称す。キリギリス橋とも呼ぶ」と載せてある(註一)。大正の現時にも此の橋が在るか無いか、出無精な私はついぞ往つて見たことがないので何とも言はれぬが、地図で見ると此の堺隈は明治になつてから市区改正や町内整理のあはたゞしい時代を経て来た上に、中央線が開通すると同時に大規模の飯田町停車場が置かれるやうになり、総てが徳川時代とは一変してゐるので此の橋も退転したやうである。然しその詮索は姑らく措くとして、私は此のコホロギ橋を話の糸口として各地のコホロギ橋の由来を討ね、更に袖モギさんの正体を手繰り出して見たいと考へた。これが此の小篇の目的であるが、ともすると話がこんがらがるかも知れぬけれども、そこはお馴染甲斐に鷹揚の態度で読んでもらひたい。
 先づコホロギ橋の伝説で有名なのは秋田市の古六騎橋の由来である。寛政年中に出版された黒酣瑣語(第一編)に「或時牧する者古き板橋に昼休し、煙草の灰を橋の上に置きしに、異なる匂ひし其香四方に薫ず、其板一枚はコホロギ橋の残欠ならんか。コホロギは元奇南の一名、杉根千年を経てなるとも聞えし昔彼の橋を破毀ちて售し者は由縁ある浪人とて、腰に一刀を佩び、香炉木の用は無きかと横柄に触れ歩きしと聞えしに、亡国の怨恨残りしにや、一生の生産をなせし者なく、今世これを綽名してコホロギとて乞丐の称となす」との意が記してある。此の話は恰も伊達網宗の伽羅の下駄を豆腐屋の主人が拾ひ、それを竈にくべて異香を発し驚いたとある巷説と同巧異曲のものであるが、所詮、コホロギの名に香炉木を附会する為めに作為したものである。風俗画報編外秋田男鹿嶋名勝(巻上)には此の事に関し「古六騎コウロギと訓ずアテ字なるべし。伝説には古六騎は秋田家の臣にして、秋田家の宍戸に移封の時、案内者として此地にとゞめ置きし者と云ふ。後年八橋吹上山陰に潜居し、士ならず民ならず、天徳寺に佐竹家の仏事あるとき、又た市内及び附近の村落に事あるとき、施米銭を受くる特権を藩より与へ、皆白木綿の長き袋を負ひ、戸毎に立ちて報謝を受けたるものなり。明治五年戸籍編別のとき其戸数を調べしに柴田権六、佐無長之丞、大山与四郎、獅子寿太郎、木本門十郎、安東留吉の六戸儼存せりと云ふ」と載せ。更にコホロギ橋に就いては「伽羅橋また香炉木橋とも云ふ。高清水の西、土崎街道にあり。香木にて造りし橋なりと云ふ伝説あり。今はさしたる事なき木橋なり。旧藩時代に帯刀せる乞食ありて、この橋片を削り、香炉木の御用は無きかと触れ歩きしなど云ふは、此の香炉木橋と古六騎とを牽強せし説なるべし」とある。是等の記事から推測すれば、秋田の古六騎なる乞食の群は、元々六騎の浪人が土着した為に生じた地名では無くして、コホロギと称する橋の辺りに住居したので自然と此の名を負ふやうになり、再転して古六騎の字をアテたので帯刀の由緒が附会され、更に香炉木をアテしより奇南の伝説を生み、三転して秋田県案内にあるやうな「此の橋は朝日夕日の長者の架けし橋なりと云ふ」が如き伝説まで捏造するに至つたのである。従つて由来を質せば古六騎も尋常一様の乞食と少しも相択ぶなき者であるのを、浪岡具雄氏が何か特別のの如く感違ひして報告されたのは(民族と歴史一巻六号)ちと分別だ浅かつたやうに考へる。伝説の研究はちよつとの小才や、三年五年の読書位で遣つてのけられるものではなく、一かどの伝説学者を以て任じてゐる藤澤衛彦氏の伝説研究などを見ても、まだ伝説と歴史の区別すらも分らぬと云ふ情ない有様だ。藤澤氏などは春秋に富んで居らるゝやうであるから折角勉強するが良いが、どうもあゝ大天狗になられては此の末が思ひやられる―少く憎まれ口をたゝいて置く。それは兎も角として秋田のコホロギ橋に就いては、これ以外の事は私には知り得ないのでコホロギの由来は江戸のそれと共に依然として不明であるが、然し段々と此の種の資料を列挙して行くうちに、朧げながらも追々と眼鼻がついて来ると考へたので、例の如く私のノートに書きつけてあるだけを列べるとしやう。加賀国山中温泉の大聖寺川にコホロギ橋と云ふが架けてある。石川県案内と云ふ書には此の橋をコロタイプ版で掲げ、晋永機の「川も啼くコホロギ橋や夜半の秋」と云ふ月並宗匠まる出しの俗句が添えてある。私と同じ編輯局に机を並べてゐた高橋橘郎氏は、此の温泉に遊んだことがあるとて、同地の民謡に『飛んで往きたいコホロギの茶屋へ、恋のかけはし二人づれ』と唄はれてゐると教へてくれた。今では橋の袂へ茶屋が出来たので、かくは橋の名を負ふたのであらう。大正四年刊行の柏崎と題する書に、越後国刈羽郡柏崎町の香積寺の門前にもコホロギ橋と呼ぶ小石橋があり、俚伝によると鎌倉時代の領主柏崎勝長の夫人が館を飛ひ出し狂気顛倒して此の橋を渡つたので転出橋、狂出橋と云ふたのが後転訛してコホロギ橋となつたのだと云ふ(註二)。此の橋の上で転んだ人は吃度不具になるし、又これを修覆する人は必らず病気若くは早死すると云はれてゐる。然して此の勝長の夫人が謡曲「柏崎」の女主人公であると伝へられてゐるが、兎に角にコホロギ橋や袖モギさんに女性が関係する点は、特に読者の記憶にとゞめて置いてもらひたい。それから若狭郡郡志(巻三)に、小浜町の石垣町と富田町との間にコロミ橋と称する石橋がある。向若録に俗伝を載せてゐるが、それによると此の橋は白尼(私註三)が渡つたもので、若し顛倒して地に倒れば起たずして死ぬるのでコロミ橋と名づけたので、コロミは即ち転倒の意に外ならぬ(原漢文取意)大和名所図会(巻四)城上郡の条に倭路記を引用して『釜の口の東、高嶺は弓槻ヶ岳、頂上に十市兵部少輔遠忠の城趾あり、此の辺の道筋にコホロギ橋と云ふあり、小溝に野づら石を渡したるよし、又コホロギビ云ふ謡曲あり』と記してある。美作国真庭郡富原村の大字に古呂々尾と云ふがある。現行の地方名鑑によると尾をヲと云ふ振仮名が附してあるが、西作誌(巻下)を見ると古呂々比とあるから、古くはコロヽビと訓んでゐたのであらう。然し村名の起原に就いては手許に在る地誌類を調べて見たが明記を欠いてゐるので、何事の発見も為し得ぬが、私の察するところでは恐らくコホロギ橋系に属する俗信が生んだ地名と言ひたいのである。まだ此の外にも詮索したならば沢山のコホロギ橋が出て来るかも知れぬが、そんな事に屈托してゐるざ詮索で日が暮れてしまふので、此の辺で止めて置いて更に筆路を進めるとしやう。【以下、次回】

註一。古くコホロギの別名をキリギリスと呼びしは事実なれども、現時にては多く別種にして取扱つてゐる。此の橋をキリギリスと呼びしこと他の書に明記なきものゝ如く姑らく本書に従ふとする。
註二。コホロギがコロビ又たはコロブと転化するか否か、言語学上よりは議論もあることゝ思ふが、私はかく信じたいのである。小浜、柏崎のそれなどは転化の例として薄弱であらうが、又た以て一例と見ることが出来やうと思ふ。更に各地の類例を集めて見たいと思ふ。切に読者からの御報告をまつ次第である。
註三。白尼とは若狭にて生れしと云ふ白比丘尼の意にて、一に八百歳の長寿を保てると云ふところより八百比丘尼とも呼んでゐる。巫女の一類ならんとは信じてゐるが、未だに明白を欠く不思議の人物である。これに関し西川玉壷氏の考証あれど附会無稽とるに足らぬ愚説である。

 

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