礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高田保馬、教職不適格者指定を受ける(1946)

2024-09-08 04:39:36 | コラムと名言
◎高田保馬、教職不適格者指定を受ける(1946)

 高田保馬は、1945年(昭和20)11月、講演のために金沢に赴いた。このときの高田は、無職無官であった。1944年(昭和19)3月、京都帝国大学経済学部教授を定年退職、同年同月、文部省所管民族研究所の所長に就任したが、敗戦にともなって、1945年(昭和20)10月、廃官とされていたからである。
  幾人か吾を忘れざる人ありて此うつし世の生くるには足る
 この和歌は、無職無官でいたときに、講演に招いてくれた官立石川師範学校の清水暁昇校長、あるいは、講演記録を出版したいと申し出てくれた有恒社の駒井欽七郎社長を念頭において詠まれたものだったと推測する。
『終戦三論』の上梓は、1946年(昭和21)5月5日で、同年6月10日には、早くも第四刷の発行を見ている。この年に刊行された高田保馬の著書は、二点だった。もう一点は、同年11月に刊行された『価格・労銀・失業』(東洋経済新報社)。「東洋経済講座叢書」の一冊で、六日間に及ぶ連続講義の内容を再現したものである。
 1946年4月、高田保馬は、京都帝国大学から名誉教授の称号を与えられた。ところが、この年の12月、高田は、京都帝国大学の教職員適格審査委員会から、教職不適格者指定を受けた。さらに、1947年(昭和22)6月、中央教職員適格審査委員会から、教職不適格者指定を受けている。
この指定が、「原審破棄」という形で取り消されたのは、1951年(昭和26)6月であった。同年8月、大阪大学法経学部教授に就任して、学界への復帰を果たした。このとき、すでに満67歳である。
 高田は、1945年10月から1951年6月までの間、学界から離れていたわけだが、この間も、研究意欲、執筆意欲は旺盛で、次のような著書を世に問うている。

『終戦三論』有恒社、1946年5月
『価格・労銀・失業』東洋経済新報社、1946年11月
『インフレエションの解明』関書院 、1947
『経済の勢力理論』実業之日本社、1947
『社会歌雑記』甲文社 、1947
『社会学の根本問題』関書院、1947
『世界社会論』中外出版、1947
『洛北雑記』大丸印刷 、1947
『経済学原理』日本評論社、1948
『経済学論』有斐閣、1948
『最近利子論研究』有斐閣、1948
『社会主義経済学入門』広文社、1948
『経済学方法論』小石川書房、1949
『略説経済学』関書院、1949
『労働価値説の分析』甲文社、1949
『社会科学通論』有斐閣、1950
『社会学大意』日本評論社、1950
『耐乏夜話』実業之日本社、1950
『マルクス批判』〔アテネ新書〕弘文堂、1950

 これらのうち、『終戦三論』と『価格・労銀・失業』については、すでに言及した。
 また、『社会歌雑記』については、当ブログで、これまでに何度か、その内容を紹介している。

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