礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

胸中の血は老いてなほ冷えぬ(高田保馬)

2024-09-07 00:51:06 | コラムと名言
◎胸中の血は老いてなほ冷えぬ(高田保馬)

 高田保馬『終戦三論』(有恒社、1946)から、「後記」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

 終戦前後、数多の恩師先輩を次ぎ次ぎに失つてしまつた。此小著を出しても、これらの方々に見ていただけぬ事は何よりも物足らず心淋しい。織田萬〈オダ・ヨロズ〉、小川郷太郎〈ゴウタロウ〉、米田庄太郎〈ヨネダ・ショウタロウ〉等の諸先生相次いで世を去られたので、自己の生命の一角に著しき空虚を感ずる。別して米田博士はいつでも私の数ならぬ著書を隅々まで読んで下さつた。読過〈ドッカ〉の感想をもはや此書について聞く事を得ないと思ふと、春寒愈〻背に寒きを覚える。
 それにしても昨日一枚の葉書は遠藤隆吉博士の訃〈フ〉を伝へた。私の社会学の先輩としては建部遯吾〈タテベ・ケンゴ〉、遠藤隆吉、米田庄太郎の三博士があつたが、建部博士数年前に世を去り、次に米田・遠藤の両博士二ケ月を経てずして相次いで逝去せられた。私の学問の米田博士に負ふところについては記すまでもない。遠藤博士から受けてゐる影響も亦浅からざるものがある。今社会学界に於て大体私が最古参の形になつて見ると寂寥の感益〻深い。
 近年経済学の仕事に没頭してゐたけれども、心の奥の興味は深く社会学につながれてゐる。その中、筆硯〈ヒッケン〉を新にして一の組織をまとめ上げたいといふ希望を未だに持ちつづけてゐるが、見せようと思ふ先輩に去られるのは此上もなく淋しい。年六十を過ぎても昔の先輩に対してはいつもこれを書きましたといひたい気持である。かくはいふものの私自身も亦同じく人間の身健康可なりに恢復してゐるといつても世に百年の寿多からんや。残れる歳月を出来るだけ有効に使はねばならぬと思つてゐる。近頃若き学者来りて何かを紙に書けといふ。ライプニツの文句、一時間が失はるるごとに生命の一部が滅び行くと書きつけた。同時に自らを警め〈イマシメ〉てゐるわけである。
 今夜もはや十時を過ぎた。立春は過ぎたといへ寒さは愈〻強い。昨春三月末家族郷里に帰つて今なほ独居であるとはいふものの、かの修業僧の軒に米を受け寒林に薪を拾ふのとはちがつて、配給の米を炊ぎ〈カシギ〉電熱に汁煮る。気楽といへば気楽である。けれども寒厨手がかじけ、深夜膝を抱いて遠く子を思ふこともある。
   有明の月かげにしてたく汁の筍もはや煮えにけらずや
   雨こよひ雪とやならんくりやべ〔厨辺〕に洗へば老の手はかじけつつ
   幾人【いくたり】か吾【あ】を忘れざる人ありて此うつし世の生くるには足る
   ひそやかにひとりを生きてあるわれや烏【からす】も来嗚き風もおとなふ
 かかる身辺の事のみ書き列ねると、天下の急変、所謂無血の革命に関心をもたぬかといふ人もあるであらう。年少功利の実学をすてゝ社会理論の専攻に身を投じたるもの、天下を忘れる瞬間もない。胸中の血は老いてなほ冷えぬ。ただ私には守るべき学問の立場がある。私の役目は自ら信ずるところを窮め、縦には後代の為に残し、横には世界の学問を高むることでなくてはならぬと思ふ。
   終戦二年二月十一日 京都市塔の段に於て   高 田 保 馬

 高田保馬は、この「後記」を書いた時点で、満62歳。この高齢にもかかわらず、「私の役目は自ら信ずるところを窮め、縦には後代の為に残し、横には世界の学問を高むること」と、気を吐いている。

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