礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

首だけ持ってくればいいじゃないか(西成甫教授)

2024-09-01 00:14:36 | コラムと名言
◎首だけ持ってくればいいじゃないか(西成甫教授)

 正木ひろし『弁護士――私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書、1964)に拠りながら、いわゆる「首なし事件」について紹介している。
 本日は、その四回目。同書の第1章「運命の事件まいこむ」の第6節「非常手段を決意」の前半を引用してみる。

〈6〉 非常手段を決意
長文の陳情書を作成
 わたしは、三十日の朝から三十一日の朝まで、ぶっつづけで、「大槻徹その他、数名に対する警察官の暴行及び殺害被疑事件の顚末並びに経過」という、原稿紙三十余枚の文書を作成しました。そして、その冒頭に朱色で注意として、
「大槻ノ変死体ハ昭和十九年一月三十日現在、茨城県那珂郡長倉村ニ仮埋葬中ナルモ、寒冷ノ為メ、死体尚オ腐敗セズ、今後数日間ハ解剖ニ耐エル見込ナリ。」
としるしました。そして、この長文の陳情書を清書して、一月三十一日の午後二時ごろ、第一東京弁護士会館で橋本〔三郎〕弁護士に手渡しました。
 同氏はこれを、わたしの目のまえで読んでいましたが、読み終わると、
「これでけっこうだから、二十部ほどタイプで印刷してほしい。定例理事会は二月五日に開かれる。その節、理事に計るつもりである。」
といいました。
 これからさきも、プリントの作成に日時がかかり、それができて、委員会に提出してから、各委員会がそれを検討し、「さて」といって立ち上がってくれるまでに、いったい何日ぐらいかかるのだろうか、と考えると、またゆううつになってきました。

「東大で解剖」「東大で解剖」 【略】

旧知の解削学教授をたずねる
「もう一度、古畑〔種基〕教授に会って、民間の権威ある法医学者を紹介してもらおう。死体の発掘や解剖には、警察の許可がなければならないのだが、あらためて解剖はしなくとも、すでに一度解剖した跡を見るだけである。墳墓発掘といっても、まだ仮埋葬である。法医学者に、長倉村まで行ってもらえばすむことだ。」
と、 ひとりで理屈をつけたのでした。
 わたしは、まるで飛ぶようにして、東大の赤門から、いちょう並み木のあいだをまっすぐに通って、古畑教授の室のまえに行きました。ところが、ドアには「不在」の札がかかっていました。小使室で聞いてみると、教授は今しがた退出され、あすは見えないというのです。しかし、教授の自宅へ押しかけることは、逆効果しか期待できません。そのとき、わたしは、ふと十数年まえにお目にかかった比較解剖学の西成甫【にしせいほ】教授を思い出しました。
 かつてわたしは東大を卒業して、中学の教師・新聞記者・雑誌記者・雑文業などをしながら、絵を勉強していました。そのころ、人体を描くには、骨格から研究しなければならないと思って、伝手【つて】を求めて、東大医学部の解剖学教室へ数か月間通ったことがあったのです。主任の西教授は、法学部出身のわたしが、骨をながめたり、スケッチしたりしているのを、おもしろく思われたのか、よくわたしとも話をしてくださいました。

首だけ持ってくればいいてはないか
 わたしは、別棟の二階にある解剖学教室に駆け上がっていきました。何年ぶりかでお会いした先生は、「近きより」を通じて、わたしの動静をよく知っておいででした。わたしは古畑教授に話したのと同じように、できるだけ抽象的に、
「実は、いなかの医者に脳溢血かどうかを鑑定してもらったところ、その医者が、相手と通謀したらしく、困った事件なのですが、だれか行って再鑑定してくれるよい法医学者はいないでしょうか。」
というと、西教授はすぐいわれました。
「それなら古畑君がいい。」
 ここでもし、古畑先生には断わられた、といえば、話がめんどうになりそうだったので、
「古畑先生は、きょうはるすでだめなのです。といって、早くしないと、腐敗のおそれがあるのですが。」
 そういうわたしは、多少、泣き声になっていたかもしれません。西教授はひどく気のどくに思われたらしく、
「首だけ持ってくれば、脳溢血かどうか、わかるんじゃないですか。」
 これは、一般哺乳動物の解剖を専門にされている科学者としてはまことに当然な考え方です。しかし、人間のばあいは、法律的には、なかなかめんどうです。許可が必要です。わたしはその許可を取って正式の鑑定を得るために、帝国弁護士協会に陳情書を出そうとしている矢先に、西教授は、逆に首の解剖のほうを先にやってしまったらいいだろう、といわれたのです。〈55~59ページ〉

 節のタイトルに、「非常手段を決意」とある。西成甫教授の話を聞いて、正木ひろしは、仮埋葬されている死体から「首」だけを持ってくるという「非常手段」をとる決意をしたのである。
 映画『首』で、第一東京弁護士会の橋本三郎弁護士(映画では宮崎弁護士)に扮しているのは、北竜二。東京帝大解剖学教室の西成甫教授(映画では南教授)に扮しているのは、三津田健、東京帝大法医学教室の古畑種基教授(映画では福畑教授)に扮しているのは、佐々木孝丸である。それぞれ、その役柄にピッタリという感じのベテラン俳優が選ばれ、どの俳優も、その役柄にふさわしい重厚な演技を見せている。

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