◎森永製菓の「定価売り」とそのルーツ
一昨日のコラム「森永ミルクキャラメルと岩波書店の意外な接点」の中で、次のように述べた。
ただ、森永製菓が、「定価売り」の方針を特に強調していた会社だったのかどうか、その「定価売り」が、ミルクキャラメルを嚆矢としたのかどうかは、確認する必要がある。
森永製菓が、「定価売り」の方針を特に強調してきた会社だったのかどうかについては、何とも言えない。森永太一郎の回想記「今昔の感」を読んでも、「定価売り」を強調しているような箇所はない(「定価」に言及していないわけではない)。そもそも、創業当時の森永は、「卸し」を専門としていたのである。
とはいえ、森永の社風は、やはり、一貫して「定価売り」だったと思われる。そして、森永のそうした方針が、業界に与えた影響も少なくなかったと思う。なお、これは、大塚久雄の回想を根拠にして言うのだが、一般国民が、森永のそうした方針を知るようになったのは、紙サック入り「森永ミルクキャラメル」が発売された一九一四年(大正三)あたりからだったのではないだろうか。
森永の社風が、一貫して「定価売り」だったことは、森永太一郎の片腕となって森永製菓の発展に尽くした松崎半三郎(一八七四~一九六一)の証言によって、ほぼ明らかである。
松崎半三郎は、その回想記「思い出のまま」(『森永五十五年史』所収)の中で、次のように書いている。
キリストの山上の垂訓のうちに、「神の国と神の戦〈タタカイ〉とを求めよ」といふ言葉があるが、翁〔森永太一郎〕はこの言葉の実行者でなければならないと考へて居られたのである。尤も翁はキリスト教に入られ前でも信仰の篤い浄土真宗の家で育ったのだし、その十三歳から奉公してゐた翁の叔父に当る山崎文左衛門氏といふ人は伊万里〈イマリ〉の陶器の問屋で、「商人は絶対に掛値をしてはならない、いつも正値〈マサネ〉で販売しなければならない」といふ正札〈ショウフダ〉主義の人、翁は此の人から正直一途〈イチズ〉の商法を叩き込まれて来たことであるから、さうあるべきは敢て怪しむに足りないが、キリスト教の信仰が一層その信念を固めさしたことは疑ふ徐地は無いのであって、常に事業の上に正しきを求めるといふことが翁の一生を通じての事業精神であった。
だから翁はその頃我国の習慣であった「あげ底」式は蛇蜴〈ダカツ〉のやうに嫌はれ、苟くも〈イヤシクモ〉消費者をゴマかす様なやり方は一切うけつけなかった。森永の進物〈シンモツ〉ではフレンチメキストが一番良く売れたが、これ等も一号から五号まで種類を作り、何れも中身を一杯に詰めたものであった。得意先では「あげ底」で体裁の良いものを好むものも多かったが、翁は断乎たる信念を以て斯様な〈カヨウナ〉欺瞞的商業には一歩も妥協しなかったのである。
また赤坂時代からウヰスキーボンボンを作って売り出し、仲々良く売れてゐたが、或日フレンド女学校の先生からアルコール分の入ったボンボンは幼少な子供の軟弱な頭脳を冒し〈オカシ〉、低能にする危険があるので英国では一切斯かる〈カカル〉お菓子の製造を禁止してゐるといふ話をきかれ、翁は人気のあったこの製品の製造を直ちに英断を以て禁止されてしまった。これは僅かの例に過ぎないが、かういふ事は凡庸の商人では到底出来難いことであり、この出来難いことを敢えてやってのけた処に森永翁の社会正義の人としての偉大さがあり、その強い信念を培った〈ツチカッタ〉ものは翁の信仰であるといふことを私は深く信じてゐるのである。
これによって、森永製菓が、その創業当時から、「正札主義」であったであろうことが推定できるのである。
森永太一郎は、クリスチャンであった。アメリカに修業していた間に、日本人メソジスト協会の河辺貞吉〈カワベ・テイキチ〉牧師から、洗礼を受けたのである。
右に松崎半三郎も紹介しているように、森永太一郎は、「商人道徳」とも呼ぶべき確固たる信念(松崎半三郎の表現によれば「事業精神」)を信念を持っていた。この信念は、松崎半三郎も指摘する通り、キリスト教の信仰に基くところが大きかったはずである。
「正札主義」は、暴利を貪っていないことを示すことであり、まさにこれは、「商人道徳」に基くとものなのである(マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」を想起されたい)。ただし、森永太一郎の「正札主義」に関していえば、そのルーツは、陶器商の叔父・山崎文左衛門にあったと思われる。
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