礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

頻婆娑羅王は玄奘訳では影堅王

2018-10-19 02:49:57 | コラムと名言

◎頻婆娑羅王は玄奘訳では影堅王

 昨日、小西甚一の「放射能」というエッセイを紹介した。小西甚一校訂『梁塵秘抄』(朝日新聞社、一九五三)に挟まっていた「日本古典全書/梁塵秘抄附録/古典の窓」という通信に載っていたものである。
 この通信の筆頭にあるのは、永井義憲氏の「上品王と影堅王」というエッセイである。本日は、これを紹介してみたい。
 永井義憲〈ヨシノリ〉氏は国文学者で、『日本仏教文学研究』(古典文庫、一九五七)、『日本仏教説話研究』(和泉書院、二〇〇四)などの著書がある。一九一四年(大正三)生まれであるが、今日も御健在であるという(ウィキペディア「永井義憲」の項による)。

  上品王と影堅王    永 井 義 憲

 上品わうははゝきをもち、き尺せんにはそうさをりとかやな、五大山のふかきより、一乗となつていてたまふ。
 この秘抄二一七の歌は「上品王〈ジョウボンオウ〉は宝華を持ち、耆闍崛山〈ギジャクッセン〉に聖者居りとかやな。五大山の深きより一乗となつて出で給ふ。」の誤写で、頻婆娑羅〈ビンバシャラ〉王が釈尊を耆闍崛山中に法を問う為に訪れた事を言つたものだろうとする私案は、秘抄研究の先達である小西甚一、新間進一両学兄も讃意を表して下さつたが、上品王の解釈に苦しんで私は、王は逆子阿闍世〈アジャセ〉王の為に幽囚せられ仏の光明に照らされて阿那含果〈アナゴンカ〉を得て死んだという観無量寿経の説と結びつけてこの阿那含果を得た聖者は色界無色界に生じ再び慾界には生じ来らずという処から、上品王と言つたのだろうとこじつけて見た。
 ところが間もなく私はもつと素直に解釈すべきである事に気がついた。頻婆娑羅王は玄奘〈ゲンジョウ〉の訳では影堅王〈ヨウケンオウ〉である。やうけん→やうほん→しやうほん、と誤写を重ねて行つたらしい。王の訳名は汫沙・瓶沙・萍沙・形牢・影勝など数多いうちでも影堅王の駅名は三宝絵を始め唱導関係の文献には多く見えている。今は耳遠いこの名も当時にあつては最も大衆化した名であつたと思われる。
 私たちが註釈書をたよりとして古典を読んで行くと、なかには今は大正新修大蔵経を探しても見出せない様な経典の名や、一寸私などには通読出来そうもない論書がその出典だと知らされて、その作者の博学な事に驚かされる。
 日本の文学に行文や説話の上で影響を与えたといわれる仏典の一つに例えば大唐西域記がある。有名でありかつ面白い本でもあるので大いに読まれたらしく中世以前の古写本も幾つか伝存すろが、然し一般庶民はもつと别な方法でこの内容を知つたらしい。安居院〈アンゴイン〉系の唱導書の一〈ヒトツ〉に「西記抄」という本がある。今知られているのは二十冊程だが原〈モト〉はもっと多かつたらしい。西城記に拠つたと註釈されている様なところはほとんどこれに有つて、平安末期から鎌倉期にかけての唱導説経の種本だつた事を知り得る。庶民の仏教智職はこの様な唱導を媒介とし理解した仏教であつたらしい。とすれば作者も矢張りこの程度の智識ではなかつたろうか。そこには中世らしい雑音も入れば、庶民らしい理屈も混つてくる。出典は見つかつたが本文の理解にはどうもぴつたりしない様な事が時々あるが、学者が苦労して採し出した出典が誤りであつたのではなく、作者の仏教理解にズレがあつたのだとしたら、その博学ぶりにも驚かずに済む事になるかも知れない。
 文学作品に表現された仏教は、われわれが仏教辞典を通して知る仏教の智識や、現代の仏教学者の学説によつて理解された理路整然たる仏教とは、どうも少し異つている時があるらしい。
 古典の罪を開けてその殿堂に入る時は、近代的な照明設備の完備した明るさも必要だが、時には和紙の小窓を通すほの暗さや、格子戸の隙もる光りのかそけさに、巻子本〈カンスボン〉を拡げて見る方が、作者の意志に素直に沿う事になる様な事が有りはしないだろうか。

 これもまた、味わい深いエッセイである。ちなみに、小西甚一校訂『梁塵秘抄』の本文では、二一七番の歌は、次のように、表記されている。

 浄飯【じやうぼん】王ははゝきをもち、耆闍崛山【きじやくせん】には聖者【さうざ】をりとかやな、五大山の深きより、一乗となつて出でたまふ。

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