礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

緑十字機事件と厚木基地事件

2016-12-19 02:29:14 | コラムと名言

◎緑十字機事件と厚木基地事件

 昨日の続きである。昨日は、上原文雄『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)から、「悲愁敗戦」の章の「日本降伏特使機の不時着」の節の全文を紹介した。
 本日は、注釈を入れながら、この文章の全文を、再度、引用してみたいと思う。注釈にあたって参考にしたのは、岡部英一さんの『緑十字機の記録』(岡部英一、二〇一五)、およびウィキペディアの関連記事である。

 日本降伏特使機の不時着
 八月十八日の夕刻〔正しくは、一九四五年八月二〇日夜〕であったと記憶する。飛行場司令部から〔陸軍明野飛行学校天竜分教場(袖浦飛行場)の竹原中尉から、であろう〕電話があって
「川辺虎四郎〔河辺虎四郎の誤記。以下、注釈しない〕中将以下の降伏特使の飛行機が浜松海岸〔岡部本では「鮫島海岸」と表記〕に不時着し、只今から救援に赴くから憲兵も同乗して行ってほしい」ということであった。
 飛行隊〔袖浦飛行場〕から差廻しの大型自動車で不時着地点に急行すると、操縦者〔横須賀航空隊、一番機主操〕の須藤〔伝〕海軍大尉が駈けよって来て、フィリッピンから台北〔伊江島〕に来て、
「台北飛行場で給油し〔正しくは、伊江島で、給油済の緑十字機に乗り換え〕木更津に向う途中、どうしたわけか、燃料が切れたので、浜松飛行場に着陸しようと方向を変えたが、海岸線に着いたところで燃料が尽きたので、安全の場所と思って沼地を探して着陸したが、藺草田の上で〔正しくは、鮫島海岸の砂浜で〕幸い飛行機の損傷も軽く、全員生命に異状なく、あそこに集まっている」
 という。機体のそばに行くと、川辺中将のほか陸海軍将校数名と、背広姿の通訳〔外務省調査局長の岡崎勝男のこと〕が一名居り、通訳官は着陸の振動で額に軽い裂傷を負って仮包帯の白い鉢巻きをしていた。
 そこで一行を飛行隊のバス〔袖浦飛行場のバスか〕に収容して、浜松飛行学校跡の将校宿舎〔浜松陸軍飛行学校は、一九四四年六月に閉鎖されていた〕に輸送して休息してもらい、負傷の手当や食事をとってもらったが、何よりも早くこの事を中央に知らせなければならない。
 須藤大尉と私は、直ちに浜松中央電話局に自動車で飛び、宿直員を起して東京へ電話を継ぐことを依頼した。
 ところが逓信線の東海道線は故障中、富山か長野経由なら通じるという。
「とにかく 一刻も早く通じる方を」
 というわけで、やっと通じたので、須藤大尉は海軍省にこの事故の状況を報告し、明朝浜松飛行場まで出迎えの飛行機を要求した。特使から陛下のお耳にも達するよう、侍従武官室にも知らせてほしいとのことで、宮内省を呼んでもらった。宮内省に侍従武官室を呼んでほしいと言うと、何かごたごたしていてしばらく時間がかかった。最初に軍人らしい声で、
「侍従武官に何の用事ですか?」
 と問うので、これは宮内省内もまだ混乱しているなと直感し、
「私は浜松の憲兵分隊長上原〔文雄〕大尉であるが、川辺中将から侍従武官長を経て上聞に達しなければならない用件があるので、侍従武官室に取次いでほしい」
 と言うと又暫らくごたごたしていたが、
「侍従武官室のものですが」
 と重味のある声がしたので
「本夕、川辺中将の一行が、フィリッピンからの帰途、浜松海岸に不時着したが、一行は全員無事であることを陛下に言上してほしいと、川辺特使の伝言であります」
 と告げた。更に陸軍省にもと、何回も呼んでもらったが陸軍省が出ないというので、憲兵司令部を呼んで貰って、当直将校にこの趣きを告げ、陸軍省にも報告してほしいと依頼し、再び飛行隊に戻って電話の旨を復命した。
 特使一行は寝ることなく、降伏文書の翻訳中であった。憲兵も徹夜警護にあたることにした。
 小用の為に出て来た随行の中佐〔軍令部航空班長・寺井義守海軍中佐〕に、お茶を出して降伏条件を聞いてみた。
「想像以上に厳しいものであるぞ、月末には占領軍が三浦半島に上陸する」
 と話してくれた。
 翌朝になっても東京から何の返信もない。飛行隊幹部〔陸軍浜松飛行隊の大平大佐、ほか〕と一行と打合せの結果、三国〔正しくは、富山〕から戻って来ていた輪送機が一機あり〔陸軍の四式重爆撃機「飛龍」〕、それが整備も完全である〔正しくは、小故障しているが、修理をすれば飛行可能である〕というので、立川まで〔正しくは、調布飛行場まで〕空輸することに決まった。操縦者は宇野少佐である。宇野少佐は緊張した顔で機上の人となって、飛行場司令〔陸軍浜松飛行隊の大平大佐のことか〕と私〔上原文雄〕に
「それでは行って参ります」
 とあいさつして飛び立った。飛び立つと間もなく東京方面から輸送機一機が飛来したが、宇野機の発航を見て、宇野機を護るように二機並んで東の空へ去った。

 上原文雄の証言は、細かい点で事実誤認があるが、やむをえない範囲のものと言える。全体として見れば、やはり貴重な記録であり、重要な証言である。
『緑十字機の記録』の著者・岡部英一さんは、同書のなかで、上原文雄の証言を引いた上で、次のようにコメントしている。

※須藤大尉が、八月二十一日午前四時ごろ海軍省へ電話を入れ、連合軍先遣隊が八月二十六日厚木に進駐するとの第一報を入れた事を裏付ける、重要な文書です。この第一報を受けて、海軍は二十一日朝に小園大佐を拘束し、厚木基地の反乱は収束に向かいます。

 岡部英一さんによれば、この文章は、須藤〔伝〕大尉が、「連合軍先遣隊が八月二十六日厚木に進駐するとの第一報を入れた事を裏付ける、重要な文書」だという。それは、引用文中の下線部分「須藤大尉は海軍省にこの事故の状況を報告し」に注目しているものと思われる。
 ちなみに、「厚木基地の反乱」というのは、「厚木基地事件」とも言い、厚木航空隊(第三〇二海軍航空隊)が、八月一五日以降、徹底抗戦を主張して戦闘体制に入った事件を指す。また、「小園大佐」というのは、この反乱の中心人物、小園安名〈コゾノ・ヤスナ〉大佐のことである。
 なお、これは憶測になるが、上原文雄憲兵大尉は、須藤伝大尉が海軍省にかけた電話の内容を把握していない。おそらく、須藤大尉は、上原憲兵大尉も含め、「人払い」をした上で、海軍省に「厚木進駐」に関する第一報を入れたのではないだろうか(当然の措置だが)。
 一方、寺井義守海軍中佐は、上原憲兵大尉から、お茶を出され、「月末には占領軍が三浦半島に上陸する」などの情報を伝えてしまう。いかにも口が軽い。かつての軍部で、「情報管理」が徹底していなかったことを物語る事例と言えよう。

*このブログの人気記事 2016・12・19(4・9位にやや珍しいものが入っています)

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