礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

御一新このかた一も欧米、二も欧米で

2024-08-09 00:02:36 | コラムと名言

◎御一新このかた一も欧米、二も欧米で

 大槻文彦『箕作麟祥君伝』から、箕作麟祥の「一代記」を紹介している。本日は、その六回目(最後)。

今一つ申すことは、皆さんが御気に入らぬかも知れませぬが、かねて考へて居りますことで、俗語で、「隣りの糂粏〈ジンダ〉味噌」と云ふことがあります、(大笑)私も、隣りの糂粏味噌とは、どう云ふ意味か、知りませぬが、先づ、自分の家の物は、どんな物でも旨くなくつて、隣りの物は、何でも、旨い、と云ふやうなことで、至極公平でない心持でございます、(喝采)其事は、国と国との間にもあることで、御一新このかた、政府も、人民も、欧米各国を羨んで、何でもかんでも。欧米々々、と云ひ、一も欧米、二も欧米で、進みました、一体、どういふものでありますか、日本人は、自分から、新発明をなすのは少なくつて、外国の真似が多いので、一番、最初は、朝鮮人が師匠で、中古では、支那人の真似をやつて、随分、うまくやつた、今は、欧米の真似をやりますが、なかなかよくやります、私は、何も、むやみに悪く言ふのではない、向ふでやつとこさと、幾年もかゝつて考へたのを、直ぐ取ると云ふのは、労せずして功あり、と云つたやうな訳で、至極宜しいが、其代りには、兎角、隣りの糂粏味噌があつて、日本の事は、どんな宜い事でも、悪いやうに思ひ、西洋人と云へば、どんな西洋人でも、智慧もあり、学問もあり、金もあり、品行も良いやうに思ひ、日本人は、誰でも、馬鹿で無学だ、と思つて居る人が、なかなか多いやうに思はれます、なるほど、欧米には、宜い人も、えらい人もありますが、何も、欧米だからと云つて、馬鹿もあれば、無学もあれば,悪党もあります、日本でも、一概に悪いとは云へないのを、それを、少しも区別しませぬで、何でも欧米なら宜い、制度法律から、 衣食住まで欧米のが宜いと云ひ、一つ品物で、葡萄酒や、蝙蝠傘まで、日本のはいけないと云ふ、極甚しいののになると、日本で製した物で、西洋文字の貼紙をすると、「これは、欧米のだから宜い、」と云ふ、そればかりではない、西洋人が言つたことだと、つまらない事でも、「なるほど、尤だ、」と云ひ日本だと、どんな宜い事でも、「なんだ、つまらない、」と云ふ、只今、法律でも、何学科でも、帝国大学の学士や、欧米へ行つて来た「ドクトル」など、すばらしい日本学者が、何か言つても、容易に貴びませぬ、それで、欧羅巴〈ヨーロッパ〉人だと、直ぐに感服して仕舞ひます、それが、糂粏味噌と云ふことだらうと存じます、糂粏味噌は、法律や、制度にも、ありがちであります、一体、考へて見ますと、自分の国で、仕来りの事は、悪くも、善く見えさうなものだのに、自分の国のものは、何でも悪く見えると云ふのは、何だか変であります、学生諸君は、天文学を学ばれる方ならば、まさか、日本の日月星辰〈ニチゲツセイシン〉はいけない、欧羅巴の日月星辰の方が宜い、とは思はれますまいし、又地質学を学ばれる方ならば、日本の地層はいけない、欧羅巴の地層が宜い、とは思はれますまいが、諸君は、法律学を学ばれなす所で、法律学なども、どうも、糂粏味噌が出来るやつです、全体、慣習と云ふものは、どこにもあるもので、一概に、慣習だから宜い、とは言へますまいが、永く続いて居る慣習は、先づ宜いものです、日本にも、古来からの慣習がありますが、中には、随分立派な慣習もあります、
そこで、法律と云ふものと、道徳との関係を言つて見ますと、西洋の法理論などに言つてありますが、法律と道徳とは、密接の関係のあるものに違ひない、其道徳と云ふものも、どんなものが宜いと、きまつたものは無い、西洋には、西洋に適当な道徳があり、東洋には東洋に適当な道徳があり昔は昔に適当な道徳があれば、今は、又、今に適当な道徳があります、でありまするから、昔の道徳を、今日に行ふと云ふことは、出来ませぬし、西洋の道徳を、そのまゝ、東洋に行ふことも出来ますまい、道徳と密接の法律も其通りであります、ちよつと申して見ますと、民法の人事篇は、親子夫婦の関係などを定めるものでありますが、日本は、日本で、親子の間の関係、夫婦の間の関係と云ふものがありますから、むちやくちやに、西洋風が宜い、と云つても、西洋まるぬきには、作れませぬ、諸君も、法律学をお学びになつて居るから、能く此事に注意をなすつて、日本の事だからと云つて、一概に捨てゝははいけませぬし、西洋の事だからと云つて、一概に採用してはいけませぬ、と云ふことを、能く御弁知を願ひたい、(大喝采)
そこで、もう一言、終りに申しますが、日本の今日の有様では、日本人の言ふことをちやかして、西洋人の言ふことを感服する、と云ふやうでありますが、それでは、余り良くないやうでありますから、諸君に御注意して、さういふ中へ巻込まれぬやうにしたい、と云ふのであります、私がかう申したとて何も、守旧だの、頑固のこつこつだの云ふのでは、決してございませぬ、たゞ、能く注意をして下さい、と云ふ趣意なのでございます、(大喝采)

 箕作麟祥は、この演説の最後で、「隣りの糂粏味噌」という諺を持ち出し、欧米のものをむやみにありがたがってはいけないと説いている。フランス法に通じていた箕作の言うことだけに説得力がある。
 それにしても、箕作の演説(スピーチ)は巧みである。ユーモアのセンスも感じられる。また、これを聴いている聴衆の反応も良い。
 近代以前の日本人は、「スピーチ」に相当するもの(聴衆に向って口頭で意見を述べる技法)を持っていなかった。スピーチに「演説」という訳語をつけたのは福沢諭吉で、その福沢が三田演説会を立ち上げたのは、1874年(明治7)のことだった。
 それから、十数年しか経っていないというのに、箕作麟祥は、巧みなスピーチ力、話術を駆使して、聴衆を引きつけている。そうした演説に、瞬時に反応できる聴衆が、すでに育っている。これは、驚くべきことだと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 商法は御雇独逸人のロヱスレ... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事