礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

北海道の北半分はソ連が占領したい(スターリン)

2024-08-02 00:00:18 | コラムと名言

◎北海道の北半分はソ連が占領したい(スターリン)

 松本重治『昭和史への一証言』(毎日新聞社、1986)を紹介している。本日、紹介するのは、第八章「敗戦とマッカーサーの日本」のうち、「米ソ対立の中の占領政策」の節である。

   米ソ対立の中の占領政策

 ―― 一九四五年八月一五日、太平洋戦争にピリオドが打たれました。日中戦争から太平洋戦争へそして敗戦と日本の運命は逆落としに下降し、奈落の底に転落します。先日もトインビーさんのものを読み返していましたら、すでに満州事変以前に、日本はポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴの運命をたどるであろうと予言しているんですね。未萌〈ミボウ〉の機を察する、というのでしょうか、大歴史家の物差しのたしかさに驚きました。先生は戦争末期に軽井沢に疎開、療養しておられましたが、日中、日米の戦争の防止や和平に渾身の努力をされながら、それが報いられなかったことへの無念の思いはいかばかりだったか、とお察しします。先生は敗戦をどのように迎えられましたか。
 松本 七月末だったと思いますが、近衛さんに会ったときに、もう駄目ですね、といったことをおぼえています。私はずっと軽井沢に疎開していたのですが、そこにやはり来ていた前田陽一君の弟が自分で無線放送の装置を持っていて、海外のニュースを傍受して私に知らせてくれていましたが、それで、日本の敗戦の日が近づいているのがわかりました。無条件降伏を知ったのは、八月一五日の玉音放送でです。ほっとしたというか、率直にいって、次のアクションが考えられない瞬間でしたね。
 ―― 虚脱感と申し上げると、いいすぎでしょうか。
 松本 まあ、そういうことですね。放送があって三時間ほどすると、横田喜三郎君がやってきて、「松本君、これで万歳だ」といいました。戦争がすんで平和がかえってくるのだから、いいじゃないか、と喜んでいました。翌日、前田多門〈タモン〉さんがやってきました。これから東京へ行く、東久邇〈ヒガシクニ〉内閣ができ、自分はその文相になる話があるからだ、というのです。
 ―― やがて日本にとって初めての占領時代をむかえます。連合国側の日本占領にさいしてアメリカとソ連がはやくも対立をあらわにします。
 松本 日本敗戦の直前、連合国側の各国軍隊がどこの地域の日本軍の降伏を受けるかということで、アメリカがソ連に連絡しています。そこで、スターリンは敗戦直後の八月一六日、千島についてはヤルタ協定でソ連領となることになっているから千島のすべての島をソ連への降伏地域にするのはもちろん、北海道についても、東は釧路〈クシロ〉、西は留萌〈ルモイ〉の線で南北に分け、北方はソ連が占領したい、と申し出ました。
 これに対してトルーマンは、一八日にさつそく回答を出し、千島についてはソ連の言い分を認めましたが、北海道については返答に困って、マッカッサーが占領することに決めたということにしたのです。スターリンは憤慨して、不満の意をあらわにした電報をよこしています。
 第二次大戦下に、アメリカ・イギリスとソ連の間で意見の相違をきたすようになり、双方は疑心暗鬼を抱いていますが、日本の占領をめぐって東西の冷戦が芽生えつつあった、ということになります。
 ―― 北海道の占領がアメリカ軍によっておこなわれることになり、日本は朝鮮のような分断国家の運命をまぬがれます。
 松本 トルーマンがソ連軍の北海道占領を拒否したあとも、ソ連は日本の占領行政に食いこもうとして、つぎに外交交渉によらず、軍部を通じてマッカーサー司令部と交渉したのですが、聞き入れられませんでした。
 ―― 九月二日には、ミズーリ号艦上で降伏文書の調印式がおこなわれます。
 松本 アメリカの当時の国務長官、バーンズは、降伏文書に天皇さまがサインされることを考えていたのです。バーンズのユダヤ系の秘書が天皇さまにサインをさせるべきだ、と強く主張していました。そういうやりとりを隣の部屋にいたグルーが耳にはさみました。グルーはそのとき国務次官をしていましたが、すぐバーンズのところにかけ寄り、天皇さまにそんなことをさせたら、日本中が蜂の巣をつついたようになるだろう、絶対にやめてほしい、と訴えました。開戦のときの駐日大使であり、日本通のグルーにそういわれて、バーンズは考えを改めたのです。
 ―― 米ソの対立・冷戦の激化のきざしがみえているので、アメリカは、敗戦で虚脱状態に陥っていた日本人の心をつなごうとして、寬大な占領政策を立てるわけですね。それでも、軍票を使ったり、裁判はすべてアメリカの軍事法廷でおこなうという直接統治方式もいっときは考えられたということですが……。
 松本 アメリカとしては初めは直接軍政をしき、軍票を使う方針だったのですが、実際は、日本政府の顔を立てた間接統治になり、通貨も軍票を使わず日本通貨を使う方針に変わったのです。アメリカのヒュー・ポールトンやイギリスのサー・ジョージ・サンソムが 間接統治を建策していました。
それから、九月二七日に天皇さまがマッカーサーをご訪問になっています。マッカーサーは、天皇さまが戦争犯罪者として起訴されないよう頼まれるのではないかと思っていたようですが、天皇さまが助命を訴えられるどころか、「戦争遂行に当たってのすべての責任は私にある。私自身をどう裁いてもいい」といわれたので、すっかり感動したのです。マッカーサーは、この勇気にみちた態度は自分の骨の髄までゆり動かした、彼は天皇こそ日本の最上の紳士だ、というわけで、天皇さまを立てる気になったのです。こういうことがあって、なおさら、間接統治の方向に進むのです。アメリカは日本語の話せる軍政官を一五〇人ほど養成していたようですが……。
 ―― 敗戦後、先生が軽井沢から東京に戻られたのはいつですか。
 松本 九月二〇日ごろだったと思いますが、緒方〔竹虎〕さんから警察電話で、東京にちょっと来てくれないかといってきました。長距離電話は、警察電話でなければ通じなかったのです。私はまだ静養していたのですが、その翌日でしたか、汽車で東京に帰りました。緒方さんに会うと、「自分は無任所国務大臣、内閣書記官長、情報局総裁の三つをやっている。総理の宮さんが何でもかでもベルを押して私を呼ぶので、忙しくてしようがない。三つのうちの一つ、情報局総裁だけでも君が背負ってくれないか」というのです。
 緒方さんにそういわれて、「それでは、もういっぺん身体検査してもらって、ご返事します」と答えました。それから、水道橋に秩父宮さまをみていた結核予防会か何かのお医者に診察してもらいました。診察の結果、「まあ、二週間か三週間静養すれば、あとは何をしてもいいよ」といわれました。そのとおり緒方さんに報告して、「二、三週間待ってください。それで調子がよければ引き受けますから」といいました。三週間たつ直前に、東久邇内閣がつぶれてしまい、私は大臣にならないですみました。(笑)

 明日は、この間、紹介してきた「敗戦記」について、若干のまとめをおこなう。

*このブログの人気記事 2024・8・2(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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