◎ドロワ、シビルと云ふ字を民権と訳しました所……
大槻文彦『箕作麟祥君伝』から、箕作麟祥の「一代記」を紹介している。本日は、その三回目。
さういふ塩梅〈アンバイ〉に、実に五里霧中で、翻訳をして居る中に、明治政府は、頻に開明に進み、其翌年、明治三年には、太政官の制度局と云ふ所に、其時、江藤新平と云ふ人が、中弁をやつて居りましたが、民法を、二枚か三枚訳すと、すぐ、それを会議にかけると云ふありさまでありました、これは、変は変だが、先づ、日本で、民法編纂会の始まりました元祖でござります、(喝采)其時分、「ドロワ、シビル」と云ふ字を、私が民権と訳しました所が、民に権があると云ふのは、何の事だ、と云ふやうな議論がありまして、私が、一生懸命に弁護しましたが、なかなか激しい議論がありました、幸に、会長江藤氏が弁明してくれて、やつと済んだ位てありました、
そのくらい分らぬ会議をしましたが、どうも、「フランス」から、法律学士を聘さなければなるまいと云ふので、それを聘すると云ふことになり、「モシュール、ブスケ」を聘しました、(其後に来られたのは、「ボアソナード」先生でござります、)(大喝采)其後、制度局の民法会は、止まりまして、左院で、民法会が始まりましたが、字句論があつたばかりで、事柄のことは、何とも論はありませんでした、
明治五年に至つて、司法省で、民法の会議がありました、此時は江藤中弁が、司法卿と、‥‥‥名が変つた、ではない、役目が変りました、(大笑)其時に、私は、訴訟法、商法、治罪法を訳しました、其時、江藤司法卿は、間違ひだらけの翻訳書を手本にして、日本の民法を作ると云つて、先づ身分證書の部を印刷にしました、併し、それは、それきりになりました、
それから、其頃は、段々、註解書も来、教師も出来、また、自分でも分るようになりまして、漸く、翻訳の校正も畢り〈オワリ〉ました、其時、日本で、活版の印刷が始まりの時で、政府で印書局を設けられました、それで、丁度、事業の手始めに、校正を致した五法を、上巻下巻を、二冊にして、西洋風の本にしました、これは大かた、諸君も御承知になつて居りませう、【以下、次回】
最初のところに、「頻に開明に進み」とある。このままだと、「しきりに開明に進み」と読むことになるが、違和感がある。「とみに開明に進み」なら違和感はない。「頻に」というのは誤植で、原稿には「頓に」とあったのではないだろうか(断定はしない)。
「ボアソナード」先生の名前が出たところで、聴衆が大喝采している。これは、この会場に、ボアソナードも足を運んでいるからである。
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