礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

1962年に愛新覚羅溥儀と面会した猪俣浩三

2018-05-26 01:53:05 | コラムと名言

◎1962年に愛新覚羅溥儀と面会した猪俣浩三

 先日、古書展で、山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)という本を見つけた。猪俣浩三(いのまた・こうぞう)の名前は知っており、その著書を読んだこともあるが、この「自伝」があったことは知らなかった。古書価三〇〇円。
 非常に興味深い本で、初めて聞くような話が、次から次へと出てくる。本日は、同書から、「元満洲国皇帝との後日会見録」の節を紹介してみたい。

  元満洲国皇帝との後日会見録

 以下は、まったく後日話になるが……。私は戦後の昭和三十七年(一九六二年)に、元満州国皇帝溥儀と親しく話しあった思い出がある。おそらく、戦後に溥儀と正式な形で会った最初の日本人は、私と家内ということになるようだ。
 その時の訪中は、中国政府からの個人招待であった。四月中に、私は家内を同伴して渡中し、約ひと月の間、中国に滞在した。公的な訪問ではなかったので、中国側より、希望することを問われた際、私は元皇帝の溥儀に会いたいと申しいれた。なぜ、溥儀との会見などを望んだかといえば、とりたてていうほどの理由はなかった。ただ、先に話したかつての満州旅行時の印象が、私の胸の中に、古いしこりのごときものとしてあり、おりにふれて、思いかえされていたせいもあった。
 ところで、昭和三十七年はというと、六十年安保闘争で岸信介内閣が倒れ、あとを継いだ首相の池田勇人が、いわゆる〝所得倍増論〟をさかんにぶっていた頃だ。実をいうと、私は溥儀との会見を申しいれたものの、それが実現されるとは、ほとんど予想していなかった。溥儀は旧満州帝国時代の過去を罰せられ、長い期間、戦犯として獄中生活にあったことを、私はよく承知していたからである。それが中国側に、いかなる配慮が働いたものやら。しごくあっさりと許可してくれたので、かえって、私のほうが、いささか拍子抜けしたことを覚えている。
 五月十一日の午前中、私と家内は、北京の全国協商会議の一室で溥儀と会った。約二時間半の面談だったが、通訳をはさんでの会話なので、正味は一時間程度ということになろうか。
 私たちの前に現れたのは、人民服を着用し、一市民に変貌をとげた愛新覚羅溥儀【あいしんかくらふぎ】であった。痩身ではあったが、六尺近い身長をもつ、堂々たる偉丈夫だ。眼鏡の奥で、温和な両の目が微笑していた。溥儀は一九〇六年生まれなので、当時、五十五、六歳になっていたはずだった。年齢よりは、少しふけた感じがした。
 つい最近、二十八歳になる看護婦と結婚したことを、私は伝え聞いていたので、まず祝福の言葉を述ベた。とたんに、偉丈夫はウキウキした顔になったので、私はオヤオヤと思った。皇帝時代の溥儀には、正妃のほか、二、三人の側室がいた。けれども、日本敗戦のドサクサの中で、阿片中毒だった秋鴻皇后は窮死。側室たちは、みな逃げだしてしまったという。その後は、独身生活をつづけてきたとのことだ。私のほうは、戦前の新聞でかいまみた、うつ向きかげんの神経質そうな横顔。極東軍事裁判の際、ソ連の捕虜として証人台に立たされた時の、いかにもうらぶれた表情。そうした暗い陰鬱な面貌を、あらかじめ念頭においておった。だから、快活にふるまう、目の前の陽焼けした偉丈夫の姿は、まるで意外な情景を、眺めているような気がしてならなかった。
 日本敗戦直後の八月十六日、奉天飛行場で待機中だった、溥儀ら旧満州国要人の一行は、進攻してきたソ連軍の手に捕えられた。日本へ脱出する飛行機の到着を、一行は待っていたのである。溥儀はその後、チタとハバロフスクの収容所で、捕虜生活を送ったという。溥儀が極東裁判の証人となったのは、この間のことであった。昭和二十五年〔一九五〇〕七月、旧満州国要人の日本人戦犯とともに、溥儀と弟の溥傑【ふけつ】とは、中国政府に身柄をひきわたされた。
 撫順【ぶじゆん】刑務所での服役生活を送った溥儀は、昭和三十四年〔一九五九〕十二月四日に、特赦をうけた。溥儀は北京に住むようになり、一年間は、植物園で働いたのだそうだ。そして、私と会う一年前の昭和三十六年〔一九六一〕三月から、全国政治協商会議文史資料研究委員会の専門委員になったとのことだった。それはどんな仕事なのですか、と私がたずねると、清末から民国初期の歴史的文献を、調査整理しているのです、という返事がもどってきた。私はそれならば、もってこいの仕事ではないかと思った。
 ともかく、私も家内もびっくりしたのは、溥儀の驚くべき雄弁ぶりだった。もうなんの淀みもなく、人なつっこそうな笑みをもらしながら、ベラべラとしゃべりつづける。構えたところなどは、これっぽっちもないんだな。まことに無邪気な態度というほかはない。それ相応の緊張感をもって、会見にのぞんだ私のほうは、なんとも、あっけにとられてしまった。私はそろそろ本題にはいろうと思い、旧満州国時代のことをただした。【以下、次回】

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