礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木治『白村江』が「物騒な書物」である理由

2018-05-20 04:51:28 | コラムと名言

◎鈴木治『白村江』が「物騒な書物」である理由

 昨日は、鈴木治の『白村江』(学生社、初版一九七二、新装版一九九五)の「まえがき」を紹介した。本日は、それに対して、注釈とコメントをおこなってみよう。
 その前に、この本のタイトルだが、国立国会図書館のデータでは、「ハクソンコウ」となっている。ただし、奥付などに明示されているというわけではない。「ハクスキノエ」と読んで誤りではないだろう。サブタイトルは、初版においては「敗戦始末記と薬師寺の謎」、新装版では「古代日本の敗戦と薬師寺の謎」である。
 冒頭に、「高松塚古墳」の話が出てくるが、これが発見されたのは、一九七〇年(昭和四五)一〇月ごろのことであった。一九七二年(昭和四七)三月一日に発掘調査が開始され、同月二一日に、鮮やかに彩色された壁画が発見され、大きな話題となった。著者が、本書「まえがき」を書いたのは、壁画発見からわずか四か月後である。
 著者・鈴木治の専攻は「美術史」である。あるとき、「薬師寺金堂三尊の建立が日唐三十年の断交期間中に当るという意外な事実」と直面し、美術史の立場から、この問題の解明を試みた。その成果が、「白鳳天平芸術の史的背景」という論文(『仏教芸術』通巻第七三号、一九六九年一二月)であり、それを「広い視野からパラフレーズ」したのが、本書『白村江』であった。
 白村江で敗れた日本は、その後長く、唐による政治的コントロールに服すことになった。――これが、本書で著者が主張しようとしたことである。

「戦後数次の彼我交渉の後に、天智天皇崩御の前年にいたり、朝散大夫郭務悰に率いられ、四十七隻の船に分乗して大挙筑紫に渡来した二千人の大部隊は、軍隊ではないとしても、国内攪乱のための大規模な政治工作隊だったことはたしかである。そしてその後引きつづいてわが国内に生じた数々の奇怪な事件は、唐のわが国にたいする内政干渉によって起ったものだったことはいうまでもない。壬申の乱をはじめとして、東大寺大佛建立その他の大事件は、すべてその中に含まれる。」

 大胆な発想である。著者は、どこから、こうした発想を得たのか。たぶん、第二次大戦後の日本が、アメリカのコントロール下に置かれている状況を見てきたからであろう。
 著者は、「まえがき」で、田中角栄が自由民主党総裁に選ばれたことに触れている。これは一九七二年(昭和四七)七月五日のことで、第一次田中内閣の成立は、その翌日であった。鈴木治が、この「まえがき」を書いたのは、たぶん、それから一〇日も経っていなかったであろう。ここで鈴木は、アメリカのアレクシス・ジョンソン国務次官から、「政治的干渉」があった事実に言及している。もちろん、あえて言及しているのである。
 炯眼の著者のことであるから、おそらく、このあとに田中角栄が「失脚させられる」事態が生じることも予想していたのではないだろうか。

「いわゆるノンポリの日本人は、一般にこのようなことにたいしてもそれほど関心を示さない。まして今から一千二三百年前の政治などについては、その政治的関心はきわめて薄いのが実情である。そこに本書の困難がある。」

 本書は、著者もよく自覚している如く、「物騒な書物」である。単なる「白村江敗戦始末記」ではない。だからこそ、私たちは、本書から、今日に通じる(今日こそ有効な)問題提起を受け取ることができるのである。

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