礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

政略結婚は昔から権力者の常套手段(猪俣浩三)

2018-05-27 04:12:52 | コラムと名言

◎政略結婚は昔から権力者の常套手段(猪俣浩三)

 山下恒夫編著『聞書き猪俣浩三自伝』(思想の科学社、一九八二)から、「元満洲国皇帝との後日会見録」の節を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 自分に野心があったから、あのような目にあってしまったのです。と、最初に溥儀〈フギ〉はいった。それから、恨みつらみを語りだした。溥儀の抱いた夢は、やはり日本の力に頼って、清朝の再興をはかることだったようだ。満州の地は、清朝発祥の地でもあった。清朝の祖ヌルハチは、朔北〈サクホク〉満州の荒野に剽悍【ひようかん】なる軍勢をおこし、たちまち全中国を席捲した。しかし、溥儀が抱いた昔日の栄華への夢は、すぐに幻滅へとかわった。
 帝位にはついたものの、溥儀にはなんらの政治的権限もなかった。唯一の仕事といえば、満州国建国記念日、天長節などの公的行事に出席するだけのことだった。すべての命令は関東軍司令官より発せられ、皇帝といえども、これに背くことは許されなかった。帝位にのぼる即位式で,溥儀は清朝皇帝の龍袍〈ロンパオ〉を着用しようとしたが、関東軍の反対にあって断念。けっきょく、満州帝国陸海軍元帥服を身につけさせられ、悔しくて泣いたとの話だ。溥儀はしだいに、関東軍のロボットにすぎないわが身をしるようになつた。
 それでも、昭和十年〔一九三五〕四月の、最初の日本訪問にあたっては、天皇が東京駅に出迎えに立つなど、日本皇室の鄭重なもてなしをうけた。ために、溥儀も一時的には、わが身の栄光に酔いしれたという。満州皇帝と日本天皇は、対等の関係にある。そう錯覚したのだ。
 ところが、有頂天になって帰還した溥儀の耳元に、監視役の満州国帝室御用掛り吉岡安直〈ヤスナオ〉が、こうささやいた。満州皇帝の父は天皇であり、天皇の代理が関東軍である。したがって、関東軍の命令に従うことが、とりもなおさず、父子の孝道をまっとうすることになるのだと……。吉岡安直は関東軍高級参謀でもあり、四六時中、溥儀の身辺につきまとった。溥儀は行動の自由さえままならなかったそうだ。吉岡はのちに、中将にまで栄進をとげている。
 また、関東軍は溥儀に、日本人の女を妻とするよう執拗に迫った。溥儀はすでに妻帯していることを理由に、これを拒絶しつづけた。関東軍の矛先は転じ、今度は独身だった弟の溥傑〈フケツ〉がねらわれた。溥傑と嵯峨実勝〈サガ・サネトウ〉侯爵の長女浩【ひろ】が結婚したのは、昭和十二年【一九三七】四月のことだ。思いおこせば、例の軍機保護法事件〔宮澤・レーン事件〕の第一審裁判中の時だったのである。私は溥儀の打ち明け話に耳を傾けつつ、当時の鳴り物入りの〝日満親善〟騒ぎを、とっさに思いだすことができた。ちなみに、嵯峨浩の曽祖母は、明治天皇を産んだ中山一位局【いちいのつぼね】の姉妹にあたる。政略結婚は昔から権力者の常套手段なのだが、その場合、かわいそうなことだが、女は一種の人身御供というほかはない。
 溥儀はさらに話しつづけた。関東軍は弟の溥傑の結婚話がきまると、満州皇帝の帝位継承法を急いで作成した。溥儀には子供がなかった。その帝位継承法には、皇帝に子も孫もない場合、皇帝の弟、ないしはその子供が帝位を継げることが、明記されてあったのだという。
 もっとも、同じような〝人身御供政策〟は、それ以前にも用いられたことがある。日本の朝鮮併合は、五百年以上もつづいた李朝を廃滅。朝鮮王家の李家は、日本の華族の中に吸収されてしまったわけだ。大正九年〔一九二〇〕四月、李朝の世子〈セイシ〉李垠【りぎん】が、梨本宮守正〈ナシモトノミヤ・モリマサ〉の長女方子【まさこ】と結婚させられておる。いずれにしても、戦前の日本の天皇制は、まことに陰湿で汚い手を使ったといえよう。【以下、次回】

 文中に、「帝位継承法」という言葉が出てくる。この法律については、以前、このブログで紹介したことがあるが、参考までに、再度、引用しておく。なお、帝位継承法の成立は「康徳四年三月一日」=一九三七年(昭和一二)三月一日であって、「関東軍は弟の溥傑の結婚話がきまると、満州皇帝の帝位継承法を急いで作成した」という溥儀の証言には、信憑性が認められる。

  帝位継承法  (康徳四年三月一日)
我ガ満洲帝国ハ日本帝国ノ仗義援助ニ頼リ斯ノ洪業ヲ開キ斯ノ邦基ヲ奠ム是ヲ以テ朕登極以来仰テ
眷命ノ本ゾク所ヲ体シ俯シテ国脈ノ繋ル所ヲ念ヒ有ユル守国ノ遠図邦国ノ長策悉ク日本帝国ト協力同心以テ益両国不可分離ノ関係ヲ敦ウシ一徳一心ノ真義ヲ発揚シ夙夜勤求敢テ或ハ懈ルナシ今茲ニ帝位継承法ヲ制定シ継体付託ノ重キニオイテ厥ノ法典ヲ定メ諸ヲ久遠ニ示ス大宝儼然建中易ラザル実ニ
日本天皇陛下ノ保佑ニ是レ頼ル夫レ皇建極アリ惟レ皇極トナリ天道ヲ裁成シ地宜ヲ輔相シ民ノ父母トナリ人以テ其ノ政ヲ行ヒ義以テ其ノ法ヲ制スレバ則チ重煕累洽覆燾ノ下永ク君民一体ノ美ヲ懋ニシ当ニ天地ト其ノ徳ヲ合シ日月ト其ノ明ヲ合スベキナリ凡ソ朕ガ継統ノ子孫及臣民タル者深ク肇興ノ基其ノ繇テ奠マル所ト
受命ノ運其ノ繇テ啓ク所トニ鑑ミ咸ナ朕ガ萬方ヲ撫綏シテ宵肝倦マザルノ心ヲ以テ心トシ聿修惟慎ミ欽戴替ルナクンバ垂統萬年必ズ無彊ノ休ヲ享ケ克ク長治ノ福ヲ保タム  
   (国務総理、宮内府大臣副署)
 帝位継承法
第一條 満洲帝国帝位ハ康徳皇帝ノ男系子孫タル男子永世之ヲ継承ス
第二條 帝位ハ帝長子ニ伝フ
第三條 帝長子在ラザルトキハ帝長孫ニ伝フ帝長子及其ノ子孫皆在ラザルトキハ帝次子及其ノ子孫ニ伝フ以下皆之ニ例ス
第四條 帝子孫ノ帝位ヲ継承スルハ嫡出ヲ先ニス帝庶子孫ノ帝位ヲ継承スルハ嫡出子孫皆在ラザルトキニ限ル
第五條 帝子孫皆在ラザルトキハ帝兄弟及其ノ子孫ニ伝フ
第六條 帝兄弟及其ノ子孫皆在ラザルトキハ帝伯父及其ノ子孫ニ伝フ
第七條 帝伯叔父及其ノ子孫皆在ヲザルトキハ最近親ノ者及其ノ子孫ニ伝フ
第八條 帝兄弟以上ハ同等内ニ於テ嫡ヲ先ニシ庶ヲ後ニ長ヲ先ニシ幼ヲ後ニス
第九條 帝嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ参議府ニ諮詢シ前数條ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得
第十條 帝位継承ノ順位ハ総テ実系ニ依ル
 附 則
本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

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