◎そんなわけで専門学校出が三人揃った
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十八回目で、第二部「農地改革」の10「和解協定」を紹介する。『新しい村つくり』という本の紹介を、ながながと続けてきたが、この「和解協定」の章の紹介を途中までおこなったところで、話題を変えようと思っている。
10 和 解 協 定
再調査ののちも、異議申立や訴願提出で買収ははかどらず、抗争は絶えなかった。しかし村木、畑中の大地主二人が黙って買収に応じたので、二十二年〔一九四七〕のうちにも数百町歩の買収があり、開墾作業は部分的に開始されていた。開墾は開拓公社に依頼し、機械でやることになっていたので、準備のために大村要之助が村に来るようになった。
そのころ、秋田鉱専を出た私の弟(佐々木康勝)は久慈町にいたが、そちらの仕事も思わしくないようなので、こちらに来させて測量などをやらせることにした。開拓公社から給料は出させるつもりであった。そのころもまだ農協の事務担当者がなく困惑していたら、この弟が比島〔フィリピン〕の戦線で友人だった永山一雄という男を八戸で見出した。彼は東北学院出身で、一時銀行にいたが、その当時は工業学校の英語の教師になっていた。その仕事も面白くないから、江刈村に行きたいという。しかし私は彼に対しても俸給を払い得る自信がなかったので八戸の自宅で初対面のときに、計画はかくかくだが、危険性が多分にあるから奨められないといった。彼はそれでもよいから行きたいという。私について来れば苦労するばかりだがよいかといっても、その方が生き甲斐があるという。そんなことで彼も村に移って来、開拓組合長の佐藤〔信夫〕とともに、専門学校出が三人揃うことになった。永山は農協を、佐々木はどこともつかず測量などを担当することになった。私は初めて字校らしい学校を出た人間を側近に得て、心強くもあり、たいくつを感じなくなった。農村に生きて一番やりきれないのは、インテリのいないことである。岸田国士ではないが、言葉が通じないような感じがするのだ。【以下、次回】