◎農民組合長は畜産課の一人を小突きまわした
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十一回目で、第二部「農地改革」の8「母の悲しみ―逆襲」を紹介している。同章の紹介としては四回目(最後)。
四月を待っている間に、味方の結束も固まって来た。そして金を出し合って県に陳情に行こうと皆でいい出した。十数名を選んで盛岡に出た。陳情書を作って、県の農地部長をはじめ、関係各課をまわった。最後に畜産課に行くことになった。実は江刈小学校で私のつるし上げをやった際に、応援に来た二名は、そのときは判らなかったが、畜産課のものだと判ったのである。彼らをやっつけねばならないということになったのである。私は一行と別れ、占領軍の事務所と弁護士のところへまわることになった。再び県に帰ってみたら、一行は畜産課の一人の男をつかまえて、たいした元気で文句をつけていた。農民組合長の山村〔繁蔵〕のごときは相手をこずき廻したという。この男にとっては災難だったわけで、前に江刈に来たのは、小泉〔一郎〕氏に頼まれて、事情も知らずに来てみたに過ぎなかったのだ。それをこんなに脅かされては、面白くなかったに違いない。こんなことをさせたのは、すべて私の命令によるものと考えられた。以後は畜産課の人々には共産党といわれ、しばらくの間嫌がられていた。ところがほかならぬこの男が、あとで私の親友になった高橋義忠氏であった。彼と親しくなるには、それからも時日を要した。
このときを最初として、こちら側も盛岡にしばしば出るようになった。宿屋に泊れば金がかかるので、知人の家に安く泊めてもらうことにした。その家の寝具には、この人々が行かなくなったしばらく後まで、虱〈シラミ〉がついていて、泊った者には必らず二、三匹はくっついて来たものだ。
こうして敵が動けば、その後をすぐ洗って、こちらの不利にならぬように陳情して歩いた。これは怠ることの出来ない戦術であったのだ。