◎願はくは溥洽を赦したまへ(道衍)
雑誌『世界』の「第22号」(一九四七年一〇月)から、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介している。本日は、その八回目。
その道衍〈ドウエン〉が永楽十六年、八十四歳で死ぬとき、何かいふことはないかとの永楽帝の問に答へて「溥洽〈フコウ〉といふもの繋がるゝこと久し。願はくは之を赦したまへ」といつたといふ。さうして、その通りに行ばれたのをきいて、感謝して死んだ。溥洽とは何者か といふに、位を逐ばれた建文帝の主録僧といふものである。燕王が兵を率ゐで南京に入り、禁門の守を失つたとき、建文帝は火に投じて崩じたともいはれ、出で、逃れたともいはれたが、この溥洽が状を知るといふものがあつた。永楽帝は、一方、この溥洽を囚へ、他方、人を遣して〈ツカワシテ〉徧く〈アマネク〉建文帝を物色させたが、遂に獲られなかつたのである。溥洽は引続き繋がれたまゝでゐた。此間建文帝は僧となつて雲南貴州の辺に往来してゐたのであるが、道衍は果して其実状を知つてゐたのか。道桁は果たして溥洽の実状を知るや否やを知つてゐたのか。また何故に臨終の願としてその解放を請ふたのであつたか。それは凡て謎のまゝで遺された。「運命」といふ題号は、此辺にも関係してゐるのである。【以下、次回】
文中、「主録僧」は、原文では「主録傅」となっていたが、誤植だと考えて校訂した。