礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

根のある風説は当路者の言語行動から生ずる

2022-05-31 03:07:03 | コラムと名言

◎根のある風説は当路者の言語行動から生ずる

 本日も、野村兼太郎『随筆 文化建設』(慶應出版社、一九四六)に載っていたエッセイを紹介する。「再び流言蜚語」というタイトルだが、これは「時観」というククリの32番目に位置づけられている。以下はその全文。

    32 再 び 流 言 蜚 語
      
 このごろ、矢つぎ早にさまざまな経験をした。そのどの一つをとつてみても、もし平常時であつたならば、神経の刺戟に耐へられないかも知れないものである。妹夫婦は爆弾に依つて家もろともにけし飛んだ。二人の弟の家は焼夷弾の余波をうけて全焼し、人人は火の海をくぐつて遁れた。彼等の遁れた先の他の一人の弟の家は一週間以内に強制疎開を命ぜられた。それがほんの一ケ月ばかりの間とは思はれないやうな変り方である。
 かうした変化の強烈な刺戟をうけたのは私共兄弟ばかりでなく、大都会に住む多数の人人は勿論、それに縁故ある人人も大なり小なり神経を尖らせられたに違ひない。敵機のために焼野原にされたわが家の跡を眺める時、父母妻子親威知友の安否を憂へつつ余燼の間を探り尋ねる時、単に哀傷的な感情よりも押へ難き憤懣の情にいらだたされるのであつた。
 さうした神経は一般直接災害に遭はなかつた人人にも伝染する。事実今日は他【ひと】の身の上だが明日はわが身の上とならないとも限らないからである。人人は神経が鋭くなり、一寸した物音にも耳を聳てる〈ソバダテル〉。物事を冷静に判断しないうちに、心が動揺する。所謂流言蜚語の温床は十分に出来てゐるといつてよい。
      
 むかし通信報道の機関の不十分であつた頃には何れも風説風聞に依つて事件を知らうとした。平常畤にあつてはそれらがどんなに間違つてゐても笑話になるだけであり、噂半分として割引して聞いてゐる。大塩の乱の時、大坂が大半焼け、町奉行が殺され、御城が陥ちたといふ風説が伝はつても、ただそれだけで、やがて時間が経ち、真相が解れば何のこともなくすむ。
 しかし非常事にあつてはさうはいかない。明治維新の際、各藩ともその態度を決定するためには出来るだけ多くの情報を集めるとともに、事の真相をつきとめる必要がある。従つて風説書などを書き集めたものが遺つてゐる。藩によつてはそれらの風聞を蒐集するために、藩士を各地に派遣したものもある。かの加藤弘之なども若いころ出石〈イズシ〉藩仙石〈センゴク〉氏のためにさうした仕事をしてゐた。
 これらの風聞風説には随分出鱈目〈デタラメ〉が多い。それだけ誰も責任をとれない。明治二十年代になつても、新聞記事には噂の聞書〈キキガキ〉程度のものが多く、記事も「何何なりといふ」とか、「何何とぞ」といふやうな語句で結んでゐるのは、あるひは今日の新聞より正直なのかも知れない。しかしさうした風説は観察者の誇張、体験者の自己中心的談話から自ら生ずるもので、実相が明かにされるとともに雲散霧消するものである。
      
 流言蜚語のうち恐るべきは、噂がやがて本当になる種類のものである。俗に火のないところには煙が立たぬといふが、一度噂や風説が実現されるやうなことがあると、民衆は根のないところの風説にも耳を藉すやうになる。根のある風説はどこから出る。それは当局が躍起になつて取締らうとする一般人から出るのではない。むしろ実際を知つてゐる当路者〈トウロシャ〉の言語行動から生ずる。
 アンドレ・モロアが「会話の際、誰にも知られてゐない真実を洩らして人の目をむかせることはたやすいことである」といつてゐるが、聞き齧つたことを秘密として知人に物語る誘惑は甚だ強い。確かに「秘密といふものは持ちこたへることの困難な荷物である」。
 かうした流言蜚語はどうしたら止められるか。当路者に対して一方出来る限り具体的に実相を伝へるとともに、他方態度を慎重にし、関係末輩の行動を厳に戒めることを先づ求めたい。一般の者には平常の如く冷静に事に処することを求めたい。

 野村兼太郎は、当時、神奈川県藤沢町に住んでいたが、もし都内に住んでいたとしたら、空襲の被害は免れなかったであろう。「家もろともにけし飛んだ」という妹夫婦は、おそらく、都内に在住していたのであろう。
 なお、「時観」は、この32が最後になっている。空襲の激化によって、こうした原稿を発表すること自体が不可能になったと推察される。明日は、話題を変える。

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